辰吉丈一郎の忘れられない言葉を元名物編集長が語る-ありがとう!『ボクシング・マガジン』打って打たれて66年

1956年の創刊以来、ファンから長年愛されてきた『ボクシング・マガジン』が2022年8月号で休刊となる。そこで鬼塚勝也、畑山隆則などが花開いた日本ボクシング黄金期ともいえる時代に同誌編集長を務めた原功さんに、今回は辰吉丈一郎との思い出やエピソードについて語ってもらった。

ボクシングマガジン66年の歴史に幕

筆者は小学生の頃に辰吉丈一郎や勇利アルバチャコフの試合をテレビでみて、ボクシングにハマっていった。高校生の頃に地元のジムでボクシングを始めて、大学はボクシング部に入部。

その後、ジムに通って30歳を過ぎてからC級プロライセンスを取ったものの、ケガで競技を続けられなくなってからはプロ・アマ問わず、観戦専門になった。

自分のボクシング人生で欠かせないのが、『ボクシング・マガジン』(通称ボクマガ)と『ボクシング・ビート』。とくにボクマガは判型が大きくて写真が見やすく、モノクロページもバラエティに富んでいて、ワクワクしながら読んでいた。

そんなボクマガは、2022年8月号で休刊する。

青春時代を過ごした90年代にボクマガの編集長を務めた原功さんは、WOWOW『エキサイトマッチ〜世界プロボクシング』でもよく観ていた名物編集長だ。今回、ボクマガ休刊の一報を聞いて無性にお話が聞きたくなり、取材させていただいた。

19歳の辰吉青年に挨拶をしたらただ一言「ああ」

――原さんがボクシング・マガジン編集部の編集部員となったのは?

大学在学中からアルバイトで入っていたんですが、社員として入社したのは1982年4月ですね。具志堅用高さんが引退して、渡辺二郎さんや友利正さんが世界王者になる直前の頃。その後、1988年から1999年まで編集長を務め、2001年に退職してフリーのボクシングライターになりました。

――辰吉丈一郎さんや鬼塚勝也さんなど、数多くのスター選手がいた時代ですか?

そうそう。他にも高橋ナオトさん、ピューマ渡久地さんや渡辺雄二さん、吉野弘幸さん、坂本博之さんなど、世界王者以外でも後楽園ホールを2000人で満席にさせる人気選手がたくさんいましたよ。

――当時の取材体験で印象深かったのは?

真っ先に思い浮かぶのは、辰吉(丈一郎)さんに初めて会ったときのことですね。1989年の5月かな。大阪で取材中だった渡辺二郎さんに「ところで原さん、辰吉って知ってますか?」と尋ねられたんですよ。私も評判は伝え聞いていたけれど見たことはない。「ちょうどこの後スパーリングをする」というので、せっかくなので帰りの時間をずらしてジムに寄らせてもらって。

で、ジムで辰吉さんと初めて会って。こちらは記者なので名乗って挨拶をするじゃないですか。そしたら、「ああ」と鼻で一言だけ。その生意気さがね、凄く心地よかった。

――え! 不愉快になったわけではなく?

強くなるオーラというか、そういう心地よさがあったんですよね。で、いざスパーリングが始まるとまたビックリしましたねえ。強さというか潜在能力というか。(渡辺)二郎さんはすでに30代半ばに差し掛かっていたとはいえ、当時19歳でプロデビュー前の少年が元世界王者に何度もパンチを打ち込んでいたんですよ。

二郎さんも血を流して、「わしがスパーリングで鼻血を出したのは初めて」と言ってましたから。ボディーも打たれて「うっ」となったり、私は倒されちゃうんじゃないかと思いました。後から聞いた話ですが、それを当時の会長が上の階でモニターを見ながら嬉しそうにしていたとか(笑)。

――これは本物だなと。

自分もこの目で見て、これは将来絶対強くなるなとワクワクしましたね。で、その調子のまま、スパーリングが終わったあとに「強かったね〜」って再度辰吉さんに声を掛けたら、また「ああ」とだけ。やっぱりぶっきらぼうな返事でした(笑)。

まだ彼がボクシングの世界でヒールになるのか、ヒーローになるのかわからなかったけれど、とにかく良い感触があった。ボクシングが好きで専門誌の記者になったわけですから、そりゃ凄いものを見られて嬉しかったですよ。

「初めて会ったときは、とにかく生意気さが心地よかったんです」(原さん)

最も売れたのは「辰吉対薬師寺戦」を掲載した1冊

――辰吉さんはその後、絶大な人気を誇るボクサーとなりました。

辰吉さんが表紙のときはわかりやすく売れ行きがよかったですね。少なくとも私が編集長をしていた11年間で最も売れたのは、辰吉対薬師寺戦をレポートした号(1995年1月号)でした。いやあ、あれは爆発的に売れた。海外スターだとマイク・タイソンなんかは東京ドームでの敗戦(1990年3月号)も数字は悪くなかったんですが、顕著に売上に影響していたのは辰吉さんを取り上げた号なんですよ。

大きな関心を集めた辰吉丈一郎対薬師寺保栄の試合レポートを掲載した号と、マイク・タイソン初の敗戦を伝えた号

――薬師寺戦だけでなく、辰吉さんは90年代にいくつか敗戦もありますよね。それでも人気は落ちなかったんですか?

ほとんど影響なく、ずっと人気があって多少の波はあるものの、売れ行きもよかったですね。勝ち負けを超えて人を惹きつける魅力があったということでしょう。実は社内で、薬師寺戦の直前に発売した辰吉さんの自伝「波乱万丈」の制作を手伝っていたんですが、試合に負けたことで「これは売れ行きが下がっても仕方ないな」とちょっと諦めていたんですよ。

でも、試合後のインタビューでは「薬師寺選手強かった、いろいろ言ってゴメン」と潔く負けを認めて、それがまた彼の魅力を高めることになった。結果、その自伝本も飛ぶように売れました。

――負けても人気が落ちなかった選手というのは珍しいですよね。

そうそう。ラバナレスとの初戦で負けたときも、以前から「負けたら引退」と言っていたので、試合後の控え室も異様な雰囲気で。多くの報道陣が詰めかけていたなか、「辰吉負けた、ザマアミロと書いておいてください」と本人が絞り出すように言ったんですよ。それも意図した言葉じゃなくて、本人の落とし前の付け方なんでしょうけど。言葉に響くものがあるんですよね。それも含めて人たらしというか。

――人たらし。ちなみに、辰吉さんは女性ファンも多かったんですか?

うーん、女性ファンの多さでいうと、鬼塚勝也さんとかの方が人気がありましたね。一方で辰吉さんは「俺のファン女性おらんでー」って笑ってましたけど。

辰吉さんが太陽だとすると、鬼塚さんはもう少し影のあるタイプ。とても頭が良く、自分の持っているものを最大限使って、51:49でもいいから勝ちたいというボクサーだと私は理解していました。辰吉さんは100:0で勝つことを目指す選手で一見するとふたりは真逆なんですよね。でも、鬼塚さんも試合はめちゃくちゃ熱く打ち合うスタイルで、辰吉さんに負けず劣らず見ていて面白かったですね。

編集部の備品に勝手にサインを書いて帰る

勝っても負けても巻頭で取り上げられることがほとんどだった

何度もボクシング・マガジンの表紙を飾った

――取材を通じて、辰吉さんとボクシング・マガジン編集部との交流は深まっていたんですね。

辰吉さんも東京に来るときは「東京に来たでー」って電話くれて、よく編集部に顔を出してくれたんですよ。

――ああ、大阪から。お土産を持って。

そんなの彼が持ってくるわけないじゃないですか(笑)。彼自体が何より嬉しいお土産みたいな存在でしたから。編集部に来たら、いらないって言ってるのに勝手に机とか会社の備品にそこら中にサインをして帰ってました。彼なりの愛情表現なんですよね。

――シャイな方だったということですか?

そう、初めて大阪帝拳のジムで「ああ」と鼻で返事をされた時のことも、あとになって聞くとしっかり覚えてくれていました。「原さん、スパー見ててくれたやん。覚えてるでー」って。生意気な態度に見えたのも、彼なりの照れ隠しだったのかもしれないですね。

辰さんがデビューしたのは1989年で、ウィラポンとの再戦に敗れたのが1999年。私が編集長在任中の11年間とほとんど重なり、一緒に時代をともにした感慨がありますね。

#2 『ボクシング・マガジン』休刊!元名物編集長が振り返る「疑惑の判定」

取材・文・撮影/田中雅大

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