映画『コンテイジョン』を観て思ったこと【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】

今回のコラムの主役はコウモリ......?


今回のコラムの主役はコウモリ......?

連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第80話

※今回のコラムは、映画『コンテイジョン』のネタバレを多分に含んでいるので、この映画を観る予定がある方、あらすじや結末を知りたくない方は、読まないことをオススメします。

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■映画『コンテイジョン』

2023年の年の暮れ、遅ればせながら『コンテイジョン』という映画を観た。

2011年に公開されたこの映画は、「新型コロナパンデミックの予言」などとも呼ばれている。香港をエピセンター(発信源)として、時間経過とともに拡散されていく「ウイルス」と「情報」によって引き起こされるパニックを描いた映画である。新型コロナパンデミックという「現実」を経験した今から振り返っても、まるで現実を写術したかのように、解像度の高い、リアリティにあふれる場面が多々見られる。

■この映画のリアリティと、「ウイルス学者」的?考察

この映画にリアリティがあると思ったのは、そのパンデミックパニックの描出の緻密さと正確さだけではなく、「伏線をきちんと回収していない、風呂敷をきれいに閉じていない」点にある、と私は感じた。

視聴者が感情移入するための第一人称的な視点であるマット・デイモン(妻であるグヴィネス・パルトローが、物語序盤に感染者として死ぬ)のストーリーは、彼の娘が、先にワクチンを接種することができた彼氏と晴れて対面での再会を果たし、自宅でささやかなプロム(高校卒業を記念するダンスパーティー)を催すシーンで幕を閉じる。
(注:劇中の役名で呼んでも逆にわかりづらいし、イメージも湧かないと思うので、実在の俳優名で紹介します。)

また、正義感にあふれる振る舞いを貫き通した、WHO(世界保健機関)のマリオン・コティヤールや、知人の息子に自分のワクチンをこっそり投与してやる、CDC(疾病予防管理センター)のローレンス・フィッシュバーンなど、公的立場にあるものたちの模範的ともいえる姿勢が映されている。

しかしこの映画は、そのような「綺麗事」だけを描いているわけではない。たとえば、CDCのローレンス・フィッシュバーンは、上述のように「自分の分のワクチンを知人の息子に与える」という善意を見せるが、その前のシーンでは、恋人という身近な存在に、CDCの機密情報をリークしてしまう。そしてそれが公にバレてしまい、後述のジュード・ロウにそれを暴露されることで、人々の不信感を募らせる事態を招いてしまう。

物語は、終盤に差しかかったところで、ついにワクチンが開発される。人々へのワクチン接種が始まり、人類に希望の光が差し込んできた、というところで物語は終わる。しかし物語は、「ワクチンができました、それで人類は救われました、めでたしめでたし」とは終わらない。

この映画の中で開発されたワクチンの接種順は、「抽選で選ばれた誕生日の順」で決まるが、接種対象のすべての人に行き渡るために充分なワクチンの製造が保証されておらず「見切り発車」の状態にある。そのような中、WHOが、ワクチンの「偽薬」を用意したりしてしまったりして(人質として拉致されたマリオン・コティヤールを救うため、という大義名分の下にではあるが)、一般社会の不信感をより一層助長し、それをこじらせた陰謀論を生み出してしてしまうような場面も散見される。

ジュード・ロウは、インターネットを介して誤情報を拡散し、金儲けを企む「悪役」として登場する。この姿など、現実世界の新型コロナパンデミックの中で問題視された「インフォデミック」を見事に描き出したもので、2011年時点でこれを予見していたところが、この映画を観て私がいちばん感嘆した点にある。そして彼は、一度は逮捕されるものの、1200万人まで膨れ上がったネット上の「信者」たちによって保釈金が支払われ、保釈される。つまり、ある種の勧善懲悪が達成されないままの形で映画は終わる。

この映画はドキュメンタリータッチで、リアリスティックな視点で「パンデミック」を描いたフィクションであるが、いわゆる「教訓」めいたものは明示されていない。そして上述の通り、「パンデミックの終わり」の姿も明確には描かれていない。この2点も、リアリティを増す要素となっているように感じた。

■ウイルス学者的トリビア

ちなみに、本編とはまったく関係がないが、ウイルス学者的な立場から気づいたこの映画トリビア(雑学)をいくつか紹介する。

まず、このパンデミックの原因ウイルスは「MEV-1」となっているが、これがなんの略称かについては、作中で紹介されていなかったと思う。ネットで調べてみると「Meningo-encephalitis virus-1」、直訳すると「髄膜脳炎ウイルス1型」と設定されていたようである。これはもちろん、創作上の、実在しないウイルスである。

次に、この「MEV-1」感染のエピセンターは香港。呼吸器感染症という設定から、1997年の鳥インフルエンザの世界初のヒトへの感染事例、そして、2003年のSARS(重症急性呼吸器症候群)のアウトブレイクの舞台となった香港が、パブリックイメージとしても適当だったのかもしれない(ちなみに、この辺の時代背景については、この連載コラムの77話でも触れているので、併せて読んでもらえるとイメージがより湧きやすいかもしれない)。

そしてこの映画は、「このウイルスがどのようにして出現したのか?」という、物語そのもののネタバレ・前日談が明かされて幕を閉じる。それは、以下のようなものであった。

グヴィネス・パルトローが働いていた会社が、森林開発のために、どこかの森をブルドーザーでなぎ倒す。そこに棲んでいたコウモリたちが生息地を追われ、養豚場に紛れ込んだ1匹が、豚たちと接触する。その豚が香港の料理店に運ばれ、屠畜される。料理人は、屠畜の際に手についた豚の血を、洗い流さず、エプロンで拭いただけの手で、グヴィネス・パルトローと握手をする。

つまり、森林開発によって住処を追われたコウモリ→豚→香港の料理人→グヴィネス・パルトロー、という経路で、ウイルスは受け渡され、ヒトの世界に「スピルオーバー(異種間伝播)」してきた、ということになる。

この、「コウモリ→豚→人」というスピルオーバーの経路、そして、脳炎という症状は、「ニパウイルス」という、現実世界に実在するウイルスをモデルにしていると思われる(ちなみに、作中で「ウイルスの進化」について専門チックに調べているシーンがあるが、そこのパソコンの画面に一瞬だけ、「Nipah virus(ニパウイルス)」という単語が出てきている)。

ニパウイルスとは、麻疹ウイルスと同じく、パラミクソウイルス科に分類されるRNAウイルスである。作中の「MEV-1」と同様に、ニパウイルスは、感染すると脳炎を発症する。その致死率は高く、感染して発症した人の約50%は死亡するとされている。

ニパウイルス感染症は、20世紀末に、マレーシアで数回の流行が報告されている。そのスピルオーバーの経路は詳しく調べられていて、やはり作中の「MEV-1」と同様に、コウモリから豚を介して人に伝播されたものと考えられている。

そして、今世紀になってからも、ニパウイルス感染症のアウトブレイクはいくつか報告されている。最近では2023年9月に、そして今年(2024年)の7月に、いずれもインドのケララ州での感染例が報告された。今年のアウトブレイクで感染した14歳の少年は、ニパウイルス感染症で死亡している。

■「ワンヘルス」というコンセプト

最後に。「この映画には教訓めいたものは特にない」と上で述べた。

しかし、この「環境破壊に(間接的であれ)加担する立場にあったグヴィネス・パルトローが最初の被害者となる」という点が、「『環境破壊する人類に対するしっぺ返し』という警鐘」という意味での「教訓」、あるいは、専門用語で「ワンヘルス(One Health)」と呼ばれる考え方の重要性を暗示しているようにも思われた。

ちなみに、この連載コラムの73話でもすこし触れたことがあるが、「ワンヘルス」とは、感染症を「人間社会の問題」として捉えるのではなく、「人間、野生動物、そして、野生動物が暮らす自然環境のすべてがつながった世界における問題」として捉える、というコンセプトである。

このように考えると、感染症の問題というのは、いうなればバタフライエフェクト、あるいは、「風が吹けば桶屋が儲かる」ようなものともいえる。人間社会で問題になってから対策を考えるのではなく、「遠くにあり、一見無関係のように見えるけれど、そもそもの原因となりうる問題から解決していきましょう」というのが、「ワンヘルス」の根底にあるコンセプトである。その「原因」となりうるもののひとつが環境破壊であり、環境を保全することこそが、感染症のリスクを減らす活動になる。感染症の問題とはかのように、地球規模の環境問題であるともいえるのである。

文/佐藤佳 写真/臼井郁

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