七月隆文『100万回生きたきみ』/特別試し読み #2

人気作家・七月隆文の文庫書き下ろし『100万回生きたきみ』から厳選して全4回連載でお届けします。今回は第2回です。美桜は100万回生きている。さまざまな人生を繰り返し、今は日本の女子高生。終わらぬ命に心が枯れ、何もかもがどうでもよくなっていた。あの日、学校の屋上から身を投げ、同級生の光太に救われた瞬間までは。100万の命で貫いた一途な恋の物語。『100万回生きたきみ』発売を記念して作品の一部を特別に公開!

『100万回生きたきみ』(七月隆文/KADOKAWA)

2

 もしかしてあれは、泣いていたのだろうか。

 美桜の脳裏に、さっきの彼のうしろすがたが残っている。

 五時限目が始まってから、ずっとだ。自分にとっても意外なことだった。何かに興味を持つことなんて、とっくになくなっているはずなのに。

 なぜか三善くんのことが離れない。

 目にゴミが入ったのだろう。そんな理由しか浮かばないし、それが妥当に思える。

 三階にある教室の窓から、グラウンドが見下ろせる。他のクラスの男子が体育でサッカーをしているようだ。

 どうしてだろう。

 細々動く男子たちの中から、三善くんの姿を一瞬でみつけてしまった。

 なんとなくみつめる。

 彼のプレーはたぶんそこそこだ。パスをしたりされたり、前に走ったり後ろに戻ったり。ただ、パスをもらうことが多い。好かれているのだろう。

 だから、無理なタイミングでボールが回ってきた。

 上からだとよくわかる。彼の背後に敵が三人いて、一気に詰め寄ってきた。

 三善くんが振り向くが、万事休す。

「――?」

 次の瞬間、三善くんが敵を全員抜いていた。

 美桜の位置から見ても、何が起こったのかよくわからなかった。くるりと回ったのだと思うけれど、速すぎて。

 抜かれた三人が固まっている。目の前で起こったことに追いついていない感じ。

 ただ、もう一つ奇妙なことは、抜いた本人である三善くんまで固まっていることだ。

 味方がゴールの前に走り込んで、パスを要求する。

 三善くんはちょっと遅れて反応し、ボールを蹴った。

 それが見当違いの方向に飛んでいき、ラインの外に出てしまう。

 三善くんが「ごめーん!」というふうに両手を合わせて謝っている。ちょっとこわばっていたピッチの空気が、すっかり元どおりになっていた。

 美桜の目には、彼がわざとそうしたように映った。

 そのとき、教師が黒板の左側を消し始める。美桜は、自分がまったくノートをとっていないことに気づいた。

 放課後、初めて話す男子に屋上で告白された。

 髪を隙なくセットし、お洒落な黒縁眼鏡をかけている。小さな目が離れていて、カマキリみたいな顔だ。

「えっと……?」

 訝る彼の声に、美桜は我に返る。

 ぼぅっとしていたらしい。いつもならすぐこう返事をするのに。

「いいよ」

「マジで!? 超うれしい!」

 開けた口の歯が、やけに小さい。隙間なく並んでいるのにきれいな感じがしない。

「感動やぁ」

 わざとらしい関西弁でおどけた。

 連絡先を交換しながら、美桜は気づく。

 彼は、これまで告白してきた男子たちとは違う。

 美桜のことを、まったく好きでない。

 ただ、するのが目的だろう。噂を聞いて近寄ってきたのだ。

「週末どっか行こうよ?」

 世界がまた、粗く曇った硝子の景色になる。感覚が曖昧になる。

 こうして流されるまま磨り減っていけば、いつか消えることができるのかもしれない。

 行きたいとこある? と聞かれ、どこでもいいよと答えた。

 それきり黙っていると、体を触られた。すぐ横に来て、腰に手のひらを当ててくる。

 されるがままにしていると、密着してきて、指にぐっと力を込めた。肌の弾力を味わって舐るようにまさぐる。

 見なくても、彼がどんな表情をしているのか想像できた。

 屋上には誰もいない。開けた静寂。

 髪に生温かい息がかかる。もしかしたら、ここでするのだろうか。

 つっ――と、腕に水滴がかすめた。

 頰に、こめかみに、ぱたぱたと冷たい水がぶつかる。

 のっぺりとした薄い灰の空から、雨粒がまばらに降ってきた。

 彼が離れ、空をにらむ。

 少しも濡れたくないというふうに神経質に手をかざし、足早に出入口へ向かう。こちらを見て、

「何してんの」

 美桜はそれに応じず、鈍くその場にとどまる。落ちる雨がみるみる増えてきたけど、動かない。

 彼はちょっと引いた目をして、

「先行くから」

 あっさり去っていった。

 美桜はなんだか、何もしたくなかった。枯れ木のように立ち、冷たい雫を受け続ける。

 細い雨が濃密になり、音が変わる。

 遠くで風に白く波打ち、見渡す市街がくすんだ色になる。お城のようなホテルのピンクがしみったれて、川は泥水に。

 美桜は濡れた鉄柵に両手を乗せた。

 真下の校舎裏に人影はない。

 砂利を混ぜたコンクリートの路面が水を帯び、ますます硬く鋭い印象に。

 あそこに落ちれば死ぬだろうか。

 べったりと張りついた髪から水滴が垂れる。全身が重い。

 雨に打たれていると、体の重さに反比例して心のどこかが軽くなっていく。その不安定さに揺らぎながら、ふと――自殺したことはあっただろうか、と考える。

 したらどうなるんだっけ。

 揺らぎがカタン、と片方に落ちる。

 同時に、美桜は枝の雪が崩れるように屋上から落下した。

 浮遊感。

 意識が加速して、時間がゆっくりと感じられる。

 なぜか自分が地面に落下するまでの秒数が計算できた。淡々とそれを自覚していたとき、唐突に確信する。

 自殺したことは、なかった。

「  」

 叫び声がした。

 下で、誰かが走っている。

 ――三善くん。

 美桜が落ちるところへ向け、まるで翼をはためかせているかのような信じられない速さで駆けてくる。

 跳んだ。

 かと思った刹那。

 かたくしなやかなものに包まれ、ふわ、と美桜の体の向きが変わった。

 彼の顎と喉仏が、すぐ目の前にある。

 うなじと膝の裏を腕で支えられ、お姫様のように抱えられていた。

 観覧車のてっぺんのように宙でひととき静止。またゆっくりと落下に転じる。

 校舎二階の窓が、水平の高さにあった。

 人間はこんなにも跳べるものだったろうか?

 彼と目が合う。

 みつめてくる瞳の黒が湿って深い。降りしきる中、今にも泣いてしまいそうに映った。

 三善くんのハンカチが、美桜の濡れた額をぬぐう。

 美桜は目を閉じそれに任せている。さらさらとした綿から彼の家で使う洗剤の香りがした。

 雨音の響きが、さっきまでと違う。耳の奥に心地よくしみてくる感じがした。

 校舎の裏口の段にある狭い踊り場。その上に突き出した庇から、つたつたと雨水がこぼれている。

 二人は並んで雨宿りをしている格好。

 三善くんはずっと何も言わない。

「どうして」

 美桜は素朴な問いを口にする。

「どうしてあんなに高く跳べるの」

<第3回に続く>

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