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姉の夫の実家に行き、ついに知った姉の「秘密」/一穂ミチ『スモールワールズ』⑤

6つの家族の光と影を描き出す6編からなる連作短編集『スモールワールズ』。本書に収録された1編「魔王の帰還」を全6回でお届け。「魔王」とあだ名される姉がなぜか実家に出戻ってきた! 高校生の弟はそんな姉に翻弄されながらも姉の「秘密」が気になって…。

『スモールワールズ』(一穂ミチ/講談社)

 期末の最終日、「きょうお店来る?」と机に近寄ってきた菜々子に、鉄二は「ちょっと行くとこがある」と答えた。

「どこ?」

 リュックの中から一枚のはがきを取り出す。

「勇さん……姉ちゃんの旦那の母親から届いた年賀状に住所書いてあった。ハローページ見たけど電話番号は載ってなかったから、直接ここに行って勇さんの母ちゃんに話聞いてみようと思って」

 JRと私鉄を乗り継いで二時間くらいかかる距離だったので、さすがに試験が終わるまでは動けないと我慢していた。

「よし、じゃあ今から行こう。きょう、おばあちゃんにお店頼む」

 菜々子が即座に乗ってきたので驚いた。一緒に来てくれればそれは心強いのだけれど。

「いいの?」

「え、誘ってくれたんじゃないの?」

「でも、留守かもしんない。空振りだったら悪い」

「その時はその時だよ」

 ほらほら、と急き立てられるように学校を出発し、電車に乗って勇の実家に向かった。制服のまま遠出するつもりがなかった鉄二は内心ちょっとびくついていたが、菜々子は気にするそぶりもなく、インカメラで自撮りに励んでいる。

 乗り換え駅の構内で立ち食いそば屋に寄って昼を済ませ、スマホのナビでいたってあっさりと勇の実家マンションまで行き着いた。あまりにスムーズすぎて心の準備が整っていない。

「どうしよう?」

「インターホン鳴らしなよ」と菜々子が促す。

「いや勇さんち母子家庭で、勇さんより弱々しい感じの母ちゃんだったから、びびらせんじゃないかって……俺、髪色とかだいぶ変わってっし」

「じゃあわたしが鳴らす、どこ? 四〇一?」

 鉄二の心の準備を待たずに菜々子が部屋番号と呼び出しボタンを素早く押し、そしてまたもスムーズに『はい』と応答された、されてしまった。

 帰りの車内で、菜々子は無言だった。鉄二もしゃべらなかった。西に傾きかけた太陽がブラインド越しにも背中を炙ってくる。往路は意識しなかったせみの声がじいじいうるさい。外の炎天と対照的に薄暗い車両のどこを見ているというわけでもなくぼんやりしていると、菜々子が不意に「気になる?」と中吊り広告を指差した。「夏の甲子園全力特集」と書かれた野球雑誌のPRで、言われるまで気づきもしなかった。

「全然」

 これから地方予選もヤマ場だが、元母校の勝敗にも心底興味がない。

「野球、そんなに好きじゃねえから」

「でも強い高校だったんでしょ、なかなか入れるところじゃないって聞いたことある」

 幼い頃の鉄二は図体だけでかくて臆病で(要は今とそう変わらない)、毎日のように泣かされて帰ってくる弟に業を煮やした姉が地元の少年野球チームに強引に加入させたのが始まりだった。当然、鉄二はいやがって泣きじゃくったが、「野球に行くんとわしにしばかれるんとどっちを選ぶ?」と地獄の二択を迫られた結果前者を選び、いやいや通って鍛えられていくうち、自分のフィジカルがほかの子どもたちより明らかに優れていることに遅まきながら気づいた。速く走り、高く跳び、力強くバットを振り、何よりタフだった。いつの間にか鉄二はどんな厳しい練習にも音を上げなくなり、小中とそれなりの結果を残して強豪校のスカウトの目に留まった。

「かっこつけてるわけじゃなくて、まじで、姉ちゃんが怖いからずっと続けてただけ。途中でサッカーに移んのとかだるいだろ、また一からやり直さなきゃだし。それで、まあ、勉強しなくていいんならって感じ?」

「でも高校にも鬼監督とかいるんじゃないの」

「監督つか、先輩? 夜まで練習して風呂入ってめし食った後で『ユニフォーム洗っとけ』って俺らに言うわけ。『朝練までに絶対乾かしとけよ』って。でも一年って乾燥機使わせてもらえねえんだよ」

「どうすんの?」

「ユニフォーム両手で持って、鯉のぼりみたいにしてグラウンド走って乾かす」

「まじでか!」

 菜々子は手を叩いて笑ってから「ごめん」と真顔で謝る。

「笑いごとじゃない、やばいね体育会系、寝られないじゃん」

「授業中爆睡してるから」

 教師も黙認していたし、あそこは「そういう場所」なのだと思うしかなかった。たかだか一、二歳の年齢差と野球の実力、その序列がすべてを決める。それなりの者たちが集められたはずの池にも、悠然と泳ぐ錦鯉とひと山いくらの雑魚の格差が歴然と存在した。鉄二はとにかく頑丈だったし、監督の罵声も上級生の無茶ぶりも姉ほどには恐ろしく感じなかったのでさしたる問題もなく過ごしていた。池の中で一軍に上がりたいとかレギュラーを獲りたいとは特に思わなかった。

 八人部屋の寮生活で初めてできた友達はスカウト生ではなく、テストに合格したセレクション組だった。駿足だが背が低く骨格も華奢で、猛練習の後で食事を詰め込むと吐いてしまうのでなかなか筋肉もつかない、はっきり言うと一番安い部類の金魚だ。どんなに熱意と努力でカバーしようとしても、肉体がついてこない。それでも憧れの野球部で何とか食らいついていこうと、毎日泥まみれで耐える友達はすぐに上級生のターゲットにされた。挨拶の声が小さいとか頭を下げる角度がなってないとか、くだらないことで因縁をつけられ、頭を小突かれ、尻を蹴飛ばされる。何十人分のパシリを言いつけられる。ほかの一年生は見て見ぬふりをし、鉄二が「コーチに言おうか」と提案すると「やめてくれ」と必死で止めてきた。

 ─面倒起こすやつは辞めてくれって言われるに決まってる。俺なんかただでさえ落ちこぼれなんだから。鉄二はせっかく才能あるんだし、目つけられるようなことすんなよ。

 才能とは何なのか。自分にそんなものが備わっているのか、だとすればどうして友達ひとり助けてやれないのか、口をつぐむのが正しいのか、鉄二にはひとつも分からなかった。姉ちゃんだったらどうするだろう、うっすらと自問を抱えたまま日々は過ぎ、年の瀬に事件が起こった。

 格下の高校との、いわば「胸を貸してやる」かたちでの練習試合でまさかの大敗を喫した。相手には大金星、こっちには大黒星どころかブラックホール、「試合してあげてもいいですけどねえ」とタワマンレベルの上から目線だった監督陣の面子はぺしゃんこで、部員全員が「たるんでる」と絞られ、グラウンドを二十周するはめになった。

 上流が荒れればその勢いは下流に行くにつれ激しさを増す。「おい、お前残れ」と友達だけ指名された時、鉄二を含めた誰もが「きっときょうはひどいことになる」と予感した。いったんは寮に帰ったものの、どうしても気になってこっそり部室に引き返すと、上級生の輪の真ん中に全裸で正座させられている友達がいた。腿の上で握り締めた拳に鼻血がぽとぽと滴るのを見た瞬間、鉄二は頭の中でとてつもなくいやな音を聞いた。濡れた木の枝を無理やり折ろうとした時のような、みしり、とも、めきり、とも聞こえたそれは、自分の心が腐り始める音だった。

 ああやっぱりボコられてる、でもしょうがねえよな、いつまで経っても成長見せないこいつも悪い。

 現実の光景が予想以上に痛ましく、直視したくないから、歪んだレンズのほうに自分を合わせようとしている、ここの価値観に染まりつつある。そう自覚した瞬間、耐えられなくなってバットを持ち出し、躍りかかった。この光景を壊さなければ自分が壊れると本気で思った。多対一だったが鉄二の狂乱ぶりに応戦しようとする者はおらず、すぐにコーチが呼ばれたので大暴れの割に人的被害は少なかった。割れたガラスの破片で何人かが切り傷を負った程度だ。ただ、内々で済ませるはずの不祥事がどこからか洩れ、部は三ヵ月の活動停止に、鉄二は退部、イコール転校という処分になった。

 友達は、友達じゃなくなった。お前のせいだ、と鉄二に言った。人から憎悪されたのは初めてだった。

 ─せっかく我慢してきたのに、これで終わった。お前さえ余計なことしなきゃ……。

「いいとか悪いとか、正しいとか間違ってるとか、決めたところでまじ無意味って思う」

 中吊りから目を逸らせないまま、鉄二はつぶやいた。

「ボコられても野球やりたい、この学校で甲子園出たいってどうしても思うんなら、こっちは『そうですか』って言うしかねえじゃん」

「気持ちで負けちゃったんだね」

「うん」

 菜々子の頭が、ぽてんと肩に乗っかってくる。女子はいい匂いがする、というのは都市伝説ではなかった。

「……きょうのこと、お姉さんに話す?」

「黙っててもそのうちばれるだろ」

「どう話す?」

「……さあ」

 勇の母親、姉の姑は、突然押しかけてきた鉄二たちを戸惑いつつ部屋に上げてくれた。そして時折涙ぐみながら話した。

 勇に難しい病気が見つかり、今は入院しているということ。進行性の病で、徐々に筋肉が衰え、自発呼吸も不可能になって、必ず死ぬこと。それが一年後か十年後かは個人差があるが、いずれにしても看病と介護の負担は計り知れない。だから勇は離婚を申し出たのだということ。生命保険金を独居の母に遺してやらねば、という事情もあったらしい。

 ─ごめんなさいね、あの子、ああ見えて頑固で、言い出したら聞かないんです。

 勇の母は頭を下げた。

 ─でもわたしも離婚には賛成なのよ。真央さんはまだ若いんだから、勇のために人生を捧げてしまわないでほしい。

 勇の頑固が、魔王の頑固を挫いた。姉もまた、気持ちで負けて戻ってきた。やはり魔王は、最後には勇者に倒される運命なのか。

「悔しいね」

 菜々子が言う。

「負けてばっかでさあ……何かひとつでもいいから、勝ちたいよね」

<第6回に続く>

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