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【話の肖像画】龍谷大学教授・李相哲(61)(10)米から客人…「没有(メイヨウ)」の国に嫌気

 《その客人は米国からやってきた。1979年、中国と国交を樹立した当時の米大統領、ジミー・カーター氏の地元、ジョージア州の大学で教壇に立っていた朴漢植(パク・ハンシク)氏だった》

 朴氏は私と同じ中国の朝鮮族です。朝鮮戦争前に家族でソウルへ渡り、ソウル大学を卒業後、米国へ留学し定住したのです。カーター氏に中国や北朝鮮政策の提言をしていると聞きました。北朝鮮を60回も訪問、金正日(キム・ジョンイル)氏の側近だった金容淳(ヨンスン)氏らと親交があったようです。94年のカーター氏と金日成(イルソン)主席との会談でも、飛行機の中でカーター氏が読む資料、金日成の人物像など詳細な情報を準備したのが朴氏でした。

 《94年5月、北朝鮮が寧辺(ニョンビョン)の原子炉でプルトニウムを生産していることが発覚。米国が施設への空爆を検討する中、カーター氏は平壌を訪れ、金日成と会談した。金日成は核開発の凍結などを約束し、危機は回避された》

 朴氏の訪中のきっかけは、「中国のどこかに父の妹がいるので捜してほしい」というトウ小平氏あての手紙でした。トウ氏が国交樹立直後に訪米したとき、カーター氏を通じて手渡されたのです。朝鮮戦争で多くの家族が引き裂かれましたが、韓国や韓国系の人が中国に来るのは難しかった。

 84年に叔母が(黒竜江省の省都)ハルビンにいることが分かり、朴氏に特別にビザが出されました。ハルビン駅に着いたら音楽隊がいたので、「一体誰が来るのだろう」と思っていたら、自分への歓迎のためだったと知って驚いたそうです。朴氏の訪問は地元でちょっとしたニュースとなりました。

 朴氏は他の離散家族の調査もかねて中国に来たというので、記者だった私は会いにいきました。私が小さい頃に亡くなった父の兄弟が韓国にいるはずと母から聞いていたからです。すると、朴氏からも離散家族の調査を助けてほしいと頼まれ、新聞社の了解を得て2週間ほど一緒に中国各地を回ることになりました。その後も2年連続、朴氏の仕事を手伝いました。

 旅の途中、朴氏から「民主主義とは選択できることだ」という話や「絶対的自由と帰属意識」についての持論を聞いて、自由主義国や大学教授という仕事へのあこがれが膨らみました。

 旅の手配は私の仕事でしたが、当時はこれが大変。ホテルの部屋を電話で予約したのにフロントへ行くと服務員は「没有(メイヨウ)(ない)」としかいいません。公務員ですから何もしなくても給料がもらえる。であれば労力を使わない方が得なのです。物を買うときも同じで商品がすぐそこにあるのに「没有」といってなかなか売ってくれない。「メイヨウ(没有)」という響きが強烈だったのでしょう。「没有」と書かれたTシャツを着て中国を旅行する外国人もいました。

 汽車の切符も何時間も並んでやっと窓口にたどりつく。割り込みもあって押し合いへし合い。記者証を使えば列の前方に行けたかもしれませんが、あまりそういうことはしたくなかった。そんな時は例外なくけんかになるのですが、私はしませんでした。けんかも嫌でしたし、没有の社会に疲れていました。そんな様子を見ていた朴氏は「ミスター・リーは中国に合わないね」と言っていました。(聞き手 長戸雅子)

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