中学生の時、リーダー格の女子が私を「無視するように」と命令を下したことでシャッターが閉じて。友達の関係を保つのに宗教組織のようなルールを強制されるのならば、そんな関係は必要なかった
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「友達」のありかたについて
母子家庭で、しかも母親が留守の多い音楽家だったため、子どもの頃は誰にも頼ることのできない心細さと不安をいつも抱えていた。あの不穏な気持ちを分かち合える同年代の仲間は滅多にいない。
不良と呼ばれる子どもたちが集団を作るのは、やり場のない孤独感や不条理感を共有するためなのだろう。私はそうした集団に入ることはなかったが、自分の家庭環境が他の家と比べてかなり特殊だということは自覚していたから、学校のような外の社会では孤独感に苛まれないよう努力を尽くしてきた。
たとえば私の母は、市販の菓子や飲料を「高度成長期が生んだ、体に害を及ぼす食品」と決めつけていた。
しかし、友達の家へ遊びに行くと振る舞われるのは高確率で母の嫌う市販の菓子と飲料であり、私の家へ誰かが遊びに来るような時は、たとえテーブルの上に母の手製のアップルパイが置いてあっても、ありきたりな市販の菓子を自ら調達し、いつもそうしているように友人たちに振る舞った。
足並みを揃えることこそ心の安寧を維持するのに必要なのだ、と
中学校のクラスメートの女子たちが“たのきんトリオ”のファンならば、話題についていくために普段見ないテレビ番組を見たり、雑誌を読んだり、情報共有ができるように頑張った。
嗜好を無理に周りと合わせるのは難しかったが、家での孤独感を耐え抜くには、外での友達関係を強固に築くことが一番効果的だと信じていた。自己主張を抑え、友人たちと足並みを揃えることこそ心の安寧を維持するのに必要なのだ、と理解していた。
しかし、とある出来事をきっかけに、私の中でこの社会的調和の心得が崩壊してしまった。当時所属していたブラスバンド部でリーダー的存在だった女子から同学年の女子たちに、私を無視するようにという命令が突然下ったのである。
いつのまにか構築されていたグループの戒律を私が守らなかったことが理由だった。リーダーである彼女を誘わず、ブラバン仲間の数名と映画に行ったのがいけなかったらしい。
「王道の偏屈ババア道だね」
私はその時、周りと自分の間に重厚なシャッターが勢いよく閉まるのを感じた。ただちに部活をやめ、ついでにたのきんトリオ好きのフリもやめ、その年の冬に一人で1ヵ月間フランスとドイツを旅した。
帰国後にリーダー格の女子が「あの時はごめんね」と謝りに来ても、閉じたシャッターが上がることはなかった。
14歳での一人旅という経験で、結局この世で頼れるのは自分しかいないということと、何かに帰属することが向かない自分の性質を痛感した私は、孤独や寂しさを回避するための人づきあいをやめた。
友達としての関係を保つのに宗教組織のようなルールの共有を強制されるのであれば、そんな関係は必要なかった。
若い時からそんな具合なので、私は友人関係を持続させるのが苦手である。しかし気がつくと、周りにいるのも私と似たようなへそ曲がりばかりで、互いに好き勝手をしていても、気が向いたら会ってしゃべれるようなスタンスが心地よい。
という話を息子にすると、「王道の偏屈ババア道だね」と笑われた。
11/20 12:30
婦人公論.jp