『ヴィオレッタ』美しすぎる少女が母を狂わせる―実在の親子が体験した背徳の世界。47歳になった娘は、母親に損害賠償請求を
* * * * * * *
幼い娘EVAを撮影したイリナ・イオネスコ
「イリナ・イオネスコ」の名前と作品は知っていた。ちょうど私が大学を卒業した1987年、書店に行くと、朝日出版社の『NUDE 3』が目に留まり、すぐに購入した。漫画家志望で浪人中の身には高価な買い物だったが、世界的な様々な写真家たちによるヌード写真に目を奪われた。その中に幼い娘EVAを撮影したイリナ・イオネスコの写真があった。まだ幼い裸体があられもなく晒された、幻想的で退廃美に満ちた作品。私は一瞬で虜になった。
娘のEVAを撮影した最初の写真集『鏡の神殿』は、1977年に出版されている。EVAは1965年生まれで私と同い年、1977年は12歳。撮影自体はもっと前だろう。まだ小学生なのに自分のヌード写真集が世界中で話題になり、『PLAYBOY』にその一部が掲載されるなんて、精神的にかなり不安定にならないかと不安を覚えた。
案の定2012年に47歳になった娘のEVAは、「子ども時代を奪われた」として、母親を相手取り、写真の原版返却と20万ユーロ(当時で2千万円強)の損害賠償請求を起こしている。
ヌード写真が世に出たことで、学校ではいじめにあい、様々な男性に欲望の対象として見られて苦痛を覚えたようだが、当然だろう。
『My little princess』
しかしEVAはその1年前の2011年に自分の体験を『My little princess (日本語タイトル/ヴィオレッタ)』として映画化。カンヌの映画祭の批評家週間50周年記念映画として華々しく公開し、女優から監督へと転身を遂げている。
映画のPRのための話題作りにしては、告訴は遅い気がする。EVAはこの映画を作りながら過去の記憶に苛まれ、「落とし前をつけなくては」と、実の母を訴えたのだろうか?
そのくらい、この映画は、危険な香りに満ちている。まさかこれが実話だなんて。自分の母親によって、自分の「性的な魅力」を撮影され、それを世界中に公開されてしまう。つまり、母親によって「バーチャル売春」をさせられていたわけだ。信じがたいが、それが事実だったことは、今もネットに残る彼女自身の写真が証している。
その実体験を、これまた実在の幼い女の子の肉体の撮影で再現するという試みは、普通に考えれば無謀だ。それも児童虐待にはならないのだろうか? 映画自体は公開時に世界中で物議を醸したが、主役を選ぶオーディションには、裸体を晒すことを承知で約500人が応募。ついにEVAの出身地ルーマニアから、「イメージぴったりの」美少女が発掘される。
その名はアナマリア・ヴァルトロメイ。父親の勧めでオーディションに応募したというから、この父親もかなり先進的だ。特典映像のアナマリアのインタビューを見ると、撮影後の成長した姿ではあるが、10代前半とは思えない落ち着きだ。話し方には稀なる知性を感じさせ、なるほど「普通の子どもと違う」。しかも美貌に恵まれているのだから、女優になるべくして生まれついたのだろう。
実在の親子が体験した背徳
映画の成功はこの「フレンチ・ロリータの新星」アナマリア・ヴァルトロメイの発見と母親を演じたイザベル・ユペールのキャスティングで、ほとんど決まったといっていい。無名の新人は、裸体を晒しての新しいロリータ像を作り出し、イザベル・ユペールは初老の自分がすでに失った「少女」の怪しい魅力をわが娘に見出し、憑かれたように撮影する、「モンスター・マザー」像を卓抜な演技で作り上げた。
そして私たちは、かつて実在の親子が体験した背徳の撮影現場に潜り込む。「映画」というものの特権がまさにここにある。私たちは観客として、本当はしてはいけないこと、児童ポルノか芸術か犯罪ぎりぎりの行為に加担し、時にカメラマンになり、時に幼い美少女モデルの視点から、その現場を追体験できるのだ。それは何という快楽だろう!!
映画では、主人公のEVAの名前が「ヴィオレッタ」に変えられ、そのまま日本公開時のタイトルになっている。デュマの小説やヴェルディのオペラで知られる『椿姫』の主人公、娼婦のヴィオレッタを彷彿させるからだろう。母親のイリナは「アンナ」という名前になる。
この母親アンナ役のイザベル・ユペールが演じた母親の狂気には舌を巻くしかない。「実の母親がまさかここまでしないでしょう」という行為や発言でも、イザベルが演じると納得してしまう。その迫力にただ圧倒され、口を開けている間に物語が進んでいくのだ。
『母と娘』
それにしても写真とは何と甘美な媒体だろう。私も若い頃に写真モデルをしたのだが、あのシャッターを切る音とライトによって、被写体も撮影側も精神が高揚し、一種のトランス状態に入っていく。それがなんとも快感で、表情がみるみる変わっていくのだ。そして「自分とは思えない」奇跡のような1枚が出来上がる。一度奇跡を見ると、被写体もカメラマンも、「次のさらなる1枚」を求めて暴走して行く。それが写真の持つ魔力だ。
だから、この2人は反発しながらも撮影をやめられない。10歳にも満たない幼い少女が、次第に自身の「女」に目覚めていく様。娘の開花を望みながらも憎み、嫉妬している母親の「女」が相克する様も、よく描かれている。
結局のところ、この映画はポルノグラフィーでもアート映画でもない。『母と娘』という濃密すぎる関係を描いた心理ドラマなのだ。
母親というものは、自分の子どもを自己の肉体の延長のようにして愛するが、しばしばその愛は癒着や支配に代わる。最初のヴィオレッタは、アンナの夢だった少女時代を体現する道具に過ぎない。しかし、娘はやがて自我に目覚めると反発し、モデルをやめようとするが、母は決してそれを許さない。あるいは他のモデルにヴィオレッタのためのドレスを着せて撮影を始め、ヴィオレッタの嫉妬心を刺激して、撮影へと引き戻してしまう。
「私のドレスよ!私がモデルなのよ!!」と叫んでヴィオレッタが母親のアトリエに戻って来てしまうシーンは印象的だ。
深い轍
娘の性への態度は、おそらくは親の性的な経験や態度、解釈への鏡として形成される。アンナのスタジオは異常なほどの多くの鏡や、髑髏など死をイメージさせるオブジェで埋め尽くされているが、彼女のナルシシズムと、けがされた過去による死への願望を象徴してあまりある。窓も閉め切りのそこは胎内かもしれず、あるいは孵化せずに死んだ蛹の繭の中なのだろう。それを破って出ていけないなら、ヴィオレッタの精神も孵化せずに死ぬ運命だ。
おそらく母のアンナ(母のイリナ・イオネスコ)は、そこから出られないままだったのではないか。遂に近隣住民の告発により、アンナは裁判所から「児童虐待」の罪を問われ、母親の資格なしとしてヴィオレッタから引き離される。
この後に行われるアンナへのカウンセリングの中で、アンナも、そのまた母も、娘のヴィオレッタ以上のねじれた性体験を持つことが明らかにされ、物語はまるで心理ミステリーのような深さと多重構造をはらんでくる。
「不幸は世代をまたいで連鎖する」
その深い轍をヴィオレッタは断ち切れるのか。そして、母親から自立できるのか。このテーマが現れ始めると、この特殊な物語は、一気に普遍的な物語へと変容する。そう、アンナは、ヴィオレッタは私たち自身なのだ。
この映画は、あまりにも遠くて、あまりにも近い、私たち自身の物語だ。この映画の中で、きっとあなたは自分自身を、そして自分の母親を発見するに違いない。まるで夢のような幻想的な映像と、甘美さの中で……。
10/24 12:30
婦人公論.jp