日本の饅頭の元祖、塩瀬総本家の会長・川島英子「信長、秀吉、家康たちから愛された、饅頭ひとすじの老舗。暖簾を守る100歳の思い」
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兵隊さんの命と引き換えのお菓子
塩瀬の朝は、とろろ芋を作るところから始まります。というのも、うちの「塩瀬饅頭」の皮にはお芋が練り込んであって、それが風味の決め手になっているんです。
まず、大和芋の皮をひとつずつ手作業でむいてすりつぶし、お米の粉を敷き詰めた大きな木鉢にトロンと入れる。それを職人が丹念に練り上げ、耳たぶよりもちょっと柔らかい皮を作ります。
お芋の水気や粘り気は、季節によってもお芋によっても微妙に違うし、その日の気温や湿度でも変わってきます。それを職人が手の平で感じながら、いつもと変わらぬ塩瀬の皮にしていく。お芋のご機嫌は機械にはわかりません。やはり職人が10年も20年もかけて習得していかなくてはならないのです。
和菓子作り670年余となる塩瀬の歴史は、南北朝時代の1349年に遡る。中国から来日した林浄因(りんじょういん)が奈良で日本初の餡入り饅頭を作り、その味が評判に。室町時代の将軍・足利義政は直筆の「日本第一番 本饅頭所 林氏鹽瀬」の看板を授けたほど。
その後も信長、光秀、秀吉……と時の為政者たちに愛され、家康の時代には江戸の日本橋に出店し、将軍家御用達に。これが今の塩瀬総本家につながる。英子さんは55歳で社長に就任、第34代当主として暖簾を守り抜いてきた。
1928年から53年まで32代当主を務めた父・渡辺亀次郎は、職人肌でお菓子一筋の人でした。その腕前は和菓子職人の間で、「お菓子の神様」と呼ばれるほど。そんな父から繰り返し聞かされてきたのが、「材料を落とすな、割り守れ」という言葉です。
割りとは材料の配合のこと。つまり、素材にこだわれ、伝統の配合を守れ、ということね。これは今や家訓となり、塩瀬の職人に日々伝えられています。
今もはっきり覚えているのが父の手の感触です。あれは男の手じゃなかった。筋張ったところがなくふわっとしていて、触ってみると驚くほど柔らかい。食紅を使うから指がほんのりピンクに色づいて、まさに繊細なお菓子を作る人の手でした。
一方しっかり者の母は、お店の事務的なことから経営、営業といったことを一手に引き受けて、職人肌の父を支えていました。子どもの目にも母はすごく「やり手」だった。
戦前までの商売は、宮内省から御用を賜ることに加え、宮様方や諸官庁、軍部関係などからのご注文、さらには大きな料亭からもご注文をいただき、繁盛を続けていました。幼い私は工場をひょこひょこ歩いては、棚の下にもぐって餡の小さなかけらをこっそりパクッ。悪い子だったわねえ。(笑)
やがて太平洋戦争が始まりまして、空襲警報が鳴るたびに工場の隣に掘った防空壕に逃げ込む日々もありました。あの頃は塩瀬の焼き窯で、学校給食用のコッペパンも作っていたんですよ。
戦時中は、戦地で亡くなった方の死を悼んでそのご遺族に天皇陛下が下賜なさる、菊と桐をかたどったお菓子「御紋菓」を作りました。一般人には手に入らなくなっていた砂糖、蜜、寒梅粉が、「御紋菓」の材料として宮内省からうちの倉庫にどんどん運び込まれてくるの。
私ももちろん手伝いに駆り出され、できあがった菓子を薄い和紙でくるんで、6個ずつ箱に納める作業を行いました。お菓子のふちが欠けてしまわないように、とても気を遣います。終戦間際の我が家の作業場は、どこもかしこもこの箱だらけで……。忘れられない光景です。
箱詰めは同じ作業の繰り返しのため、私がついウトウトしてしまって母から叱られたことを思い出します。「これは兵隊さんの命と引き換えのお菓子なんだから、丁寧に包まないといけないよ」と……。兵隊さんの式典などでも「御紋菓」が配られるんですが、それも全部うちが宮内省御用達としてやらせていただいていました。
母の読みが大当たり
しかし1945年に終戦を迎えると、状況は一変。宮内省の御用も軍隊や宮家からの注文もすべてなくなりました。そして何より困ったのは、砂糖などの材料がまったく手に入らなくなったこと。
それで父は、終戦から2年ほどの間、菓子を作れなくなりました。
人工甘味料のサッカリンを使って商品を作らないかという誘いは山ほどあったのです。いろいろな業者さんがやってきて、「塩瀬」の看板で売れば何だって売れる、と口を揃えて。でも父は「まがい物は作らない」とすべて断ってしまった。
2年も収入のない状態が続いたのですから、母も苦労したのでしょうね。「お父さんは頑固だから」としきりにこぼしていました。
でも、父はそうやって塩瀬の暖簾を守り抜いた。作らずに待機することを選んだのだと、今ならわかります。
やがて、世の中は戦後の混乱から立ち直り始め、塩瀬も少しずつ盛り返していきました。そして50年には、現在本店のある築地明石町に拠点を移します。今思えば、塩瀬が戦後の苦境を乗り切ったのはあの時だったのかもしれません。
53年に父が亡くなり、母・渡辺よしが33代当主となりました。母が力を入れたのはブライダル市場。
戦地から戻ってきた息子が結婚するとなれば、結婚式をちゃんとやろう、引き出物は塩瀬のお饅頭にしよう、と考える親が増える、そんな読みが母にはあったのでしょう。
そしてこれが大当たり。結婚するカップルが増え、盛大な結婚式が好まれたのが母の時代でした。取引先は関東一円の神社、ホテルのほか、400以上の結婚式場。
あの頃の忙しさったらなかったですね。とくに大安の前日はとにかく大変。作っても作っても間に合わない。もうお式が始まっちゃうっていうのに、まだお饅頭を詰めている(笑)。
私自身はすでに結婚して2人の子育てに追われていましたが、忙しくなると母から電話で呼び出しがかかり、しょっちゅう工場へ行ってお手伝いする日々でした。
07/30 12:30
婦人公論.jp