万葉学者・上野誠、2度の墓じまいを経験「ご先祖の遺骨を合祀墓に遺骨をポトン。墓も葬儀も、儀礼に準じなくていい。大事なのは、先祖について語り継いでいくこと」
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兄と母を見送って
2008年、兄が59歳の若さで亡くなり、改葬先の小さなお墓に葬られました。兄と同居していた母は、俳人として福岡では知られた存在でしたが、その頃から徐々に弱っていった。私は、母を奈良に呼び寄せることにしました。
その後の母は骨折や誤嚥性肺炎を繰り返し、病院と介護施設を行ったり来たり。
7年の介護の末、16年に94歳で旅立ちました。7年の間に、母とはいろいろな話をしましたが、「介護によって犠牲になる人がいないようにしよう」というのが母と私の共通の認識だったと思います。
妻や子どもにばかり負担がいくのを避けるため、私が母の病院に行けないときは、教え子にアルバイト料を払って面会に行ってもらったりしました。
また、施設の秋祭りでは、学生たちに音楽の演奏や落語の会などをやってもらったことも。私が積極的に施設の行事にかかわることで、母がスムーズに新しいコミュニティの一員になれたようにも思います。
お骨を「ポトン」と
勤めている大学近くの葬儀社と契約しておいたので、通夜から火葬までの間は、葬儀社の施設に母のなきがらと寝泊まりしました。葬儀場は使わず簡素な家族葬。母のお棺の中には、自分たちで折った折り紙を入れました。それも、供養の一つの形だと思います。
お坊さんも呼ばなかったので、出棺の際はインターネットで般若心経を調べ、それを見ながらみんなで唱えました。
一番大切にしたのは、母の句集を開いて、家族で読む時間です。たとえば私が大学に入ったとき、母はこう詠みました。
子には子の夢を羽ばたかせて鳥雲に
一流に少し外れて入学す
どちらも、母親の偽らざる気持ちでしょう。そんなことを語り合いながら母を思い出すのは、いい時間だったと思います。
母の遺骨は福岡市郊外のお墓に納められましたが、その後、このお墓すら維持するのが厳しくなってきました。私は21年から奈良を離れて東京の國學院大學に奉職しているので、年に4回、福岡まで行ってお墓参りと掃除をする負担に耐えられなくなったのです。
そんなわけで、小さなお墓もしまいました。そこに納められていたお骨は、同じ霊園の合同供養塔に納めることに。つまり私の代で、二段階の墓じまいを行ったのです。
ご先祖のお骨は袋に入れて、合同供養塔の納骨室にポトンと落としました。それがなんとなく面白かった。
同行してくださった和尚さんから、「まだまだ空きはありますから安心してください」と言われたとき、あぁ、自分も最後、こうやってポトンと落ちていくんだ、それもいいなぁと思いました。
語り続けて供養する
もし私が、家業の洋品卸業と店舗を継ぎ、福岡の地域社会の中で生きていたなら、お墓も維持できたでしょう。しかし、私はその地を離れる人生を選んだ。
わが一族を見渡してみると、親戚のなかで、跡取りが絶えている家がいくつかあります。いわゆる「絶家」です。昔ならば、絶家しないよう養子をとり、将来の墓守も確保したわけですが、今やそんな時代ではありません。
家のお墓の継承は、家が子孫に継承され、なおかつ彼らが地域に居住していることが前提となっています。しかし、そういうかたちで地域社会に生きている人は、今の日本ではもはや少数派となりました。
なかには、「墓じまいをする人は信仰心や先祖を敬う気持ちが薄いのだ」と非難する人がいるかもしれません。でも、預かっているお墓を荒れさせてはいけないという気持ちが根本にあるからこそ、墓じまいの選択をする場合もあるのです。
確かに、上野家のお墓は縮小の道を辿りました。しかし私は、母の詠んだ俳句を今も100句以上覚えているし、母のことを本に書いたり講演で話したりもしています。そうやって語り続けることが、何よりの供養だと思うからです。
人とどういう縁を結ぶのか
中国においては、3世紀にすでに大きな葬儀や大きな墓が必要なのか、人間の幸せとはそんなものなのか、という議論がありました。「竹林の七賢人」の一人は、自分が死んだらその場ですぐ埋められるようにと、従者に鋤を持たせていたと伝えられます。
また別の一人は、母親を埋葬する日に豚を蒸して肴とし、酒を二斗飲んだ。それを非礼と非難する人もいましたが、彼はいざ別れを告げる段になると、「窮す」と言ってひと泣きし、悲しみのあまり血を吐き、気を失ったそうです。
つまり、儀礼に従うだけが本当の供養ではないということなのです。お墓を持っている人はお墓を通じて、たとえばお盆にみんなで集まって食事をして、祖先のことを語るのが最大の供養でしょう。
けれどお墓がない人でも、みんなで集まって故人について語ることはできるはずだし、語るなかで死者は蘇る。仏壇も、神棚も、お墓も、大切なものではあるけれど、あくまで生きている人が幸せに暮らせることが最優先されるべきだ、と思います。
生きているうちに大事にしたいのは、人とどういう縁を結ぶのか、ということです。仏教用語で、「和顔愛語(わげんあいご)」という言葉があります。これは、笑顔で、思いやりを持って人と話すという意味。和顔愛語で接するかどうかで、その人が死後、どう語り継がれるかが決まるのです。
さらには、お菓子をつくる人は、そのお菓子でどれだけ人に喜びを与えられるか。文章家なら、どれだけ人の心に届く文章を書けるか。教師だとしたら、どれだけ多くの人たちの学びになることを教えられるか。その一つ一つが、将来的に、自分が語り継がれていく縁をつくるのだと思います。
さてこの先、私が死んだらどうなるのでしょう。まだまだ上野家のお墓問題は続きそうです。
07/07 12:30
婦人公論.jp