107歳まで生きた美術家・篠田桃紅さんの作品館を開館。「努力で成るものは、たかが知れてますわよ」の言葉に自分の指針を修正しながら

篠田桃紅さんと、「篠田桃紅作品館」代表の松木志遊宇さん(写真提供◎松木さん)
書の域にとらわれず、独自の表現を拓いた故・篠田桃紅さん。その研ぎ澄まされた感性や生き方に、多くの人が魅了されてきました。ファンであった松木志遊宇さんが、篠田さんと交流するようになったのは40年ほど前のこと。
数十年かけて集めた100点を超えるコレクションは松木さんの自宅に併設された作品館で観ることができます。「私の人生の宝物」という親交の日々を、松木さんが振り返りました。(構成:小西恵美子 撮影:大河内 禎)

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【写真】篠田さんからの手紙

<前編よりつづく

個人美術館を作ろうと決意

先生と出会って13年が経ったころ、個人美術館を作ろうと決意しました。数十年かけてこつこつと買い求めてきた先生の作品を、多くの方に見ていただきたいという思いでした。

その決意を伝えると、翌日、「一晩熟慮致しました。あなたのお申し出が理解できましたので、協力しましょう」とおっしゃいました。

60を間近にした一介の地方公務員がとんでもないことをしようとしているとわかってはいましたし、それは大変な道のりで、「やっぱり無理、やめます」と申し上げたこともあります。

でも「あなたはそれで、おやめになれるのですか?」という一言から、私の一途な思いを理解してくださっていると感じました。「いい作品は海外に行ってしまうので、あなたのところに置いておきたい」と託された作品もあり、私の選定する作品に留まらず、先生自らバランスを心してくださったのです。

●篠田桃紅(美術家)(しのだ・とうこう)

1913年中国・大連に生まれる。5歳から父に書の手ほどきを受ける。47年ころから抽象的な水墨画を描くように。当時、抽象表現主義が盛んだったアメリカで、いち早く評価を受けた。現在、作品はクレラー・ミュラー美術館、グッゲンハイム美術館、メトロポリタン美術館など国内外数十ヵ所の美術館、また、アメリカ議会図書館や京都迎賓館、皇居のお食堂など二十数ヵ所の公共施設に収蔵される。エッセイの名手としても知られ、『一〇三歳になってわかったこと』はベストセラーに。2021年、107歳で死去。松木さんが所有する55点の作品を収録した画文集『私の体がなくなっても私の作品は生き続ける』(講談社)が発売中

【篠田桃紅作品館】
新潟県新潟市中央区学校町通2-5245-4 TEL:090・2999・9495
開館時間:11時~16時(要予約)月曜休館。月曜が祝日の場合は翌日休館
入館料1000円

館については、「物事は、理想の70~80パーセントの構想を練りなさい。100パーセントはよい姿ではありません。追い追い足りないところを積み重ねていくのが、ものを作り出す人の姿勢です。建物は3回挑戦するものです」とアドバイスをいただきました。

ようやくマンションの一室で作品館をオープンしたのは、2005年のこと。オープン日においでくださったお姿が蘇ります。

14年に展示スペースを広くして、自宅に併設、という形でいまの場所に再オープンしました。もう1回挑戦したいところですが、私も80歳。さすがに2回でアウトになりそうです。(笑)

作品館は新潟市内の住宅街にある。この地に移転して10年を迎えた。松木さんが特に思いを込めた扉の中央には、篠田さんの文字をレリーフにしたものが

画文集のカバーは、この丸が印象的だ。100歳を超えた篠田さんが、はじめて描くようになったのが丸。「アトリエでどの作品を購入しようかと眺めていたら、制作中の桃紅先生が丸を描き始めて。どんな作品になるかもわからなかったのに、私はとっさに『先生、この作品にします』と言っていました」(松木さん)(写真提供◎松木さん)

努力で成るものは、たかが知れている

どういう人と出会うか、どういうものに出会うかは、自分が生きたい方向をどれくらいまっすぐに見ているかによって決まると思います。先生とは36年に及ぶ交流でした。15歳のときから憧れ続けた先生が「生き方の師」として導いてくださり、先生のあとを揺るがずついていったことで、私の人生は豊かになりました。

「人が敷いた道をゆっくり歩いていけばいいというような人生は、自分の性格には合わないから、手探りでも一人でこの道を生きていくしかない」と、芸術の道をまっすぐ歩まれた先生と違い、私はとおり一遍のことをして生きてきました。努力すれば願いが叶い、人にも評価されると考え、「努力が大切である」と高校で教え子たちに説いてきたのです。

ところが先生に「努力」についてうかがうと、じっと私の顔を見つめられて、「努力で成るものは、たかが知れてますわよ」とおっしゃった。のけぞりました(笑)。私は自分の指針を少しずつ修正しながら生きるようになりました。

こうした先生の言葉を、私は日記に細かに記してきました。先生とはお手紙のやり取りをたくさんしましたし、電話もしました。電話で先生は2時間くらいお話しになります。

私でさえ受話器を持つ手が疲れ、なにかにもたれかかったりしているのに、お手伝いの方に聞きましたら、先生は電話機の前に椅子を置き、背筋を伸ばして話をなさるそうです。

一首ごとに古い版木から柄を選び、同一の色がないようこだわった色で染め、書をなした『小倉百人一首』は、2000年に松木さんに託された。まさに伝統を踏まえたモダニズムが生きた大作で、お正月時期の館の目玉作品となっている。右は紫式部、中は喜撰法師の歌(写真提供◎松木さん)

言葉はいつも丁寧で、私のような年下の者に対しても「おやりになるんですか?」とおっしゃいますから、常に緊張したものです。電話の際、私はペンと紙をそばに置き、先生のお話しになったことを一言一句、漏らさないように記録しました。それが段ボール一箱分はあります。

いまの場所に再オープンした際、年齢的に先生をお招きすることは叶いませんでしたが、このような葉書が届きました。

「長い間大変でしたね。でも、ぬごとであったと思います。少しお休みくださいね。無為は大切です 桃紅」

どういうことが書いてあるか、すぐにはわかりかねましたが、ぬごとの「ぬ」は完了形。「やらなければならないことだったんですね」という意味です。先生は私の信念をわかってくださっていました。

そして、がむしゃらに頑張らず、静かに時を重ねることも大切ですよ、と。私は涙せずにはいられず、感服し、そして感謝しました。これは、101歳の先生からいただいたお便りです。

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