下重暁子「ドラマの主役が紫式部だろうと私は清少納言派。彼女ほど男達に鋭い刃をつきつけた女性が当時ほかにいただろうか」
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【書影】下重暁子が迫る清少納言の才能と魅力『ひとりになったら、ひとりにふさわしく 私の清少納言考』
人生で三度目の、原文で読む「枕草子」
昨年の夏は「枕草子」を原文で読んでいた。大学時代にパラパラめくっていたし、その後小冊子で「枕草子の季節感」の連載のためにもう一度、そして今度が三度目である。
甘く見ていた。全文になると大部になることも、訳注があれば、なんとか理解できるはずとたかをくくっていた。
そして今回その気になって正面からぶつかってみると、実に奥深く、現代語と違って解釈が難しい。何度も投げ出したくなった。しかし、自分で言い出したことである。
NHKの大河ドラマが今回紫式部を取り上げた。「光る君へ」である。
その話題の中で「私は清少納言の方が好きなんだけど……」と言ってしまった手前、「それなら私の清少納言考を書いてみたら」と言われて逃げ出すわけにはいかなくなった。
そこで一年ほど格闘することになった。平安時代の一人の秀れた女性作家と付き合うことで、なぜ清少納言に惹かれたかがわかった。
ノンフィクションだから感じられる、当時の貴族社会
その理由は、人間性である。「枕草子」からは、恥ずかしがり屋だが正直な清少納言の、生身の人間性が感じられる。
「源氏物語」のようなフィクションではなく、日々の暮らしで見つけた事ども、一条天皇の皇后定子(ていし)の元に宮仕えに出ることで見えてきた貴族社会の権力闘争をはじめとする虚実の数々。
初めは憧れであったものが、現実を知ることで、清少納言の物を見る目はいっそう磨かれ冴えわたる。遠く千年を経ても、今も同じである。
人間とは何か、生きるとはどういうことか。現代に重ねても、違和感がない。
そして最後に残るものは、きらびやかな館でも、色鮮かな十二単でもない。ひとりになって見えてくるものは、人への想いである。
清少納言にとっては、定子というかけがえのない恋人。
男でも女でもいい。思い出を反芻して生きる。ひとりになったら、ひとりにふさわしく……。
年を重ねたことで、心の中に土壌ができる
年を重ねて気が付いたことがある。日本の古からの芸能である能、狂言など、若い頃は退屈で、見ることはなかった。
ある日、ふとつけたNHKのEテレで舞台中継を観て魅せられた。能「卒塔婆小町」と狂言「釣狐」だったか。勉強したわけでも、きっかけがあったわけでもない。
今まで何もわからず関心のなかったものが、すっと心の中に入ってくる。言葉の一つ一つも。
いったいなぜなのか。
年を重ねて私の中に受け入れる土壌ができたとしか思えない。
古典芸能と同様、「枕草子」もこの年になって初めて味わえる。清少納言の晩年に見る「あわれ」や「をかし」。それを自分のものとする機会を得た。
なぜ今、清少納言を取り上げるのか
二人の女性のうち、私が興味を持ったのは、清少納言だった。
なぜなら、その文体にまず驚いたのだ。
「春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲の、細くたなびきたる。」
「夏は、夜。……」「秋は、夕ぐれ。……」「冬は、つとめて。……」と最初から体言止めで、リズムを取っている。
これは清少納言が得意とする漢詩の影響なのか。
結論を先に言い切ってしまってから、その後に説明する、こんな思い切った文章を書くのは、男性の中にも数少ない。文章というより詩に近いのだ。
数ある文章の中で、説明すらなく、名詞という体言止めを並べただけで一つの作品に仕上げる。「枕草子」はその意味で詩集に近い。
かと思うと、次の段には、通ってくる男達との論争がある。ここでも決して彼女は負けてはいない。鋭い刃をつきつけて、男達をやっつける。
リズム感、度胸の良さ……、卓越した詩人としての才能
こんな女性は当時見当たらなかっただろうから、またたく間に面白い女がいる、男と同等に渡り合える、打てば響くような感性の持ち主として知れ渡ったに違いない。
私がまず清少納言に興味を持ったのは詩人としてだったと思う。短いものは詩そのものを暗示し、長い文章は、アフォリズム、詩論のようなものに思えた。
当時、私は早稲田大学で詩を専攻していて、卒論は萩原朔太郎だった。朔太郎も独特の詩とアフォリズムを多く残している。
全く感性は違うものの、清少納言の言葉の使い方、思い切りの良い思考は、私には、詩だと思えて、近しいものを感じたのかもしれない。
日本の詩は、現代になるにつれて難解さを増したために、残念ながら多くの人に親しまれることが少なくなってしまったが、本来文学の中で最高位に置かれていたものが詩という表現形式であり、欧米の文学では今もなお詩が散文、小説、評論などの中で最高位に置かれている。
私は、清少納言の「枕草子」を原文で少しずつ読み進むうちに、その思いを強くした。
リズム感、言葉の使い方、感性など詩人として最高位にあるものが、早くも平安時代、一千年前に現れていたのだ。一人の宮仕えをする女性の手によって。
その度胸の良さ! 男達もたじたじとする表現力を持っている女性は、ともすると男達から煙たがられたり可愛くないという理由で遠ざけられることが多いものだが、当時の貴族社会においてはそれをも面白がられたり、論争を試みたり、貴族社会の男性達も文化的に十分成熟している奇有なる時代だったと言っていいかもしれない。
などと言うと清少納言という女性が鼻持ちならない生意気な女性というイメージを持たれるかもしれないが、実際には宮仕え前には、田舎まわりの役人を父に持つ恥ずかしがりやの少女だったという。
自意識過剰だった少女時代
しかし父は名を知られた歌人でもあり、その父が六十歳前後になって生まれた末っ子であり、父に愛されて少女の頃から才を十分に発揮していたと聞くとなんとなく合点がいく。
世慣れてはいなくても、彼女の中では幼い頃から十分に自意識が育っており、田舎まわりの出世下手の父の下で学問や教養という大切なものを吸収しながら、自分の置かれた環境が自分にはふさわしくない、いつの日か必ずその才を発揮できるという自信が芽生えつつあったに違いない。
その意味では上昇志向と傲慢さをも併せ持って成長していったことは想像に難くない。
私自身がそうだった。
小学校二年で肺結核にかかり、ほぼ二年間疎開先の奈良県の山の上の旅館の離れに隔離され同じ年位の子供達と学ぶことも遊ぶこともできず敗戦を迎え、軍人だった父は公職追放になり、社会的にも経済的にも追いつめられた暮らしの中で、決してめげてはいなかった。
今の環境には決してのみ込まれない。いつかきっと私にふさわしい時代が来る。人付き合いが下手で、友達もいなくて孤独な少女だったが、自意識過剰でなぜだか自信があった。
そして大学を出て就職し一人で生きることになって、開き直った所から道が開けた。清少納言にもその開き直りの強さを感じるのだ。
※本稿は『ひとりになったら、ひとりにふさわしく 私の清少納言考』(草思社)の一部を再編集したものです。
04/09 12:30
婦人公論.jp