『まんぷく』萬平のモデル・百福は91歳で「宇宙食」の開発を思い立つが…「子どもの教育に注力を」遺言のように書き残した年賀状の内容とは
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百福少年に帰る
百福は九十一歳になって、宇宙食の開発を思い立ちました。
会社の人はみんな耳を疑いましたが、本気でした。
ちょうど宇宙では、アメリカ、ロシア、日本など十五か国が協力して宇宙ステーションを建設していました。長い冷戦で対立してきた国々が技術を結集し、力を合わせて夢のような宇宙開発にあたっていたのです。百福は感動しました。
「平和な二十一世紀になるために、私も何かできないか」と考えました。
「人間はどこにいても、どんな環境でも、食べなければならない。宇宙でも同じだ」と。
すぐに研究所に若い十人のスタッフが集められ、百福の夢を実現するため「DREAM10」というプロジェクト・チームが作られました。宇宙食ラーメンは「スペース・ラム」と命名されました。無重力空間でも飛び散らない麺やスープをどうやって作るか、困難な技術課題をひとつひとつ解決していきました。
四年後、JAXAの宇宙飛行士・野口聡一が乗ったスペースシャトル・ディスカバリー号の打ち上げが成功しました。ラーメンが宇宙へ飛んだ瞬間です。野口が人類として初めて食べた宇宙食ラーメンは、野口の故郷・横浜のご当地ラーメン「横浜家系ラーメン」を再現した豚骨醤油味でした。
その食事風景が映像に収められ、野口自身の手で百福の元に届けられました。チキンラーメン、カップヌードルに続くスペース・ラムの成功に、九十五歳の百福は少年のように感動したのです。
元気に生きて、元気に死にたい
2007年1月5日、百福は九十六歳の生涯を閉じました。
元旦を家族と過ごした後、2日には宏基(次男)ら会社の幹部とゴルフに興じました。4日、日清食品大阪本社の初出式で、三十分間、立ったままで年頭訓示を行いました。昼食には社員と一緒に小餅の入ったチキンラーメンを食べました。翌日、心筋梗塞で倒れたのです。
百福はずっと、「誰の世話にもならず、元気に生きて、元気に死にたい」と言っていました。その言葉どおり生涯現役、見事に理想の人生をまっとうしました。
告別式で、宏基はこう述べました。
「母にとって、父はずっと実業家で仕事一途の人間でした。いつか家庭人になってほしいと思っていたはずですが、残念ながらかないませんでした」
そして、自著『カップヌードルをぶっつぶせ!』のなかで、
「父は、男としてこれだけ波瀾万丈の人生を生きたのだから、さぞ悔いのない人生だったことだろう。気の毒なのは母である。こんな浮き沈みの激しい人生につき合わされてはいい加減に愛想が尽きるというものである。そこを一切表に出さず、いつも、まあいろいろありましたから、の一言で笑い飛ばし、最後まで連れ添った母は立派である」と称賛しました。
最後の年賀状
百福、最後の年賀状
謹賀新年。
昨年を振り返りますと、毎朝、目がさめるたびに、何かしら世の中に信じられないようなことが起こっていて、心が安まるひまのない一年でした。日本中に自然災害が吹き荒れ、子どもの虐待や責任ある立場の人の不祥事などが相次ぎました。生活格差に対する不満も広がり、目を覆いたくなるような心の荒廃が進んだ年のように思えます。わたくしはすべての大人の責任において、これから十年間、本気で子どもたちの教育に力を注げば、日本を再び美しい国にすることができると信じています。
どうか皆様におかれましては、今年こそ心おだやかで、幸せな一年であることをお祈り申し上げます。
平成十九年元旦
安藤百福
百福はこの年賀状を遺言のように書き残し、平成十九年一月五日に亡くなりました。
ひ孫と遊ぶ
それから三年後。
2010年3月17日、仁子は、百福の後を追うように安らかに眠りにつきました。九十二歳。老衰でした。
明美(長女)はこんな風に回想します。
「母が泣いているところを見たことがありません。いま思えば、母には想像を絶するようなつらい思い出がいっぱいあったはずなのに、暗さや湿っぽさがまったくなかったのはなぜでしょうね。きっと、天性の明るさと、観音様のような広い心で何ごとも受け入れたのだと思います」
百福が亡くなった後、仁子の寂しさをいやしてくれたのはやはり家族でした。仁子の日記には、
「ひ孫が門から大きい声で『バァーバァー』と叫んでくれてどんなにかうれしい。有難う。いっしょに遊び元気な一日がすむ。南無観世音大菩薩様」
最後に、こんな一句が添えられていました。
孫うれしひ孫うれしと親かすむ 仁子
※本稿は、『チキンラーメンの女房 実録 安藤仁子』(安藤百福発明記念館編、中央公論新社刊)の一部を再編集したものです。
03/31 06:31
婦人公論.jp