『まんぷく』福子のモデル・安藤仁子「チキンラーメン」が爆発的に売れる中、家では厳しく子育てを…「怒った時の母は鬼!」その内容とは

世に出たチキンラーメンは爆発的に売れましたがーー(写真提供:Photo AC)
2018年に放送されたNHK連続テレビ小説『まんぷく』がNHK BSとBSプレミアム4Kで再放送され、再び話題となっています。『まんぷく』のヒロイン・福子のモデルとなった、安藤仁子さんは一体どのような人物だったのでしょうか。安藤百福発明記念館横浜で館長を務めた筒井之隆さんが、親族らへのインタビューや手帳や日記から明らかになった安藤さんの人物像を紹介するのが当連載。今回のテーマは「鬼の仁子 ~厳しい子育て」です。

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【写真】和歌山・白浜町の海岸で

作り上手の守り下手

チキンラーメンは爆発的に売れました。

時代は高度経済成長に入ったばかりです。池田隼人首相が「所得倍増計画」を打ち出し、働く女性が増えました。食生活も変わり始めていました。手間のかからないインスタント食品が求められたのです。

事業は順調でしたが、頭の痛い問題が起こりました。類似品がたくさん出てきたのです。しかも、同じチキンラーメンを名乗り、パッケージまでそっくりという商品まで現れました。

「父はよく、自分のことを『作り上手の守り下手』と表現していました」と、宏基(次男)が語っています。

人に頼まれると断れないという人の良さがあり、何度も痛い目にあいました。また、開発、発明に熱中して会社を起こすところまではいくが、育てる前につまずいてしまうことが多かったからです。

田川の工場を見せてほしいという人がたくさん来ました。

「私には企業秘密を守ろうという意識は全然なかった」という百福は、見たいという人には請われるままに工場を案内したのです。製造方法まで隠すことなく説明しました。これがあだとなりました。

月給一万二千円で働いていた技術者が、十万円の給料プラス支度金付きで引き抜かれたのです。同じ製法でチキンラーメンを作る会社が十三社も出てきました。さらに、「チキンラーメンを食べて食中毒になった」という噂まで飛び交うようになりました。

ワキの甘いところがあった百福も、この時は違いました。いち早くチキンラーメンの商標登録とパッケージデザインの意匠登録をしました。その後、時間はかかりましたが「即席ラーメンの製造法」と「味付乾麺の製法」の特許を取得しました。まず自分の発明した商品の権利を守ったのです。

大きな決断

一時、インスタントラーメンを作る会社が日本全国で三百六十社にも達しました。競争が激しくなっただけでなく、品質の悪い不良品が出回りました。特許に異議申し立てをする会社も出てきて、業界の混乱は続きました。

こうした状況を見かねた食糧庁の長官から、「すみやかに業界の協調体制を確立するように」との勧告がありました。百福はその取りまとめに努力して、「日本ラーメン工業協会」(現在の日本即席食品工業協会)の設立にこぎつけ、初代会長に就任したのです。

『チキンラーメンの女房 実録 安藤仁子』(著:安藤百福発明記念館/中央公論新社)

その時、百福は大きな決断をしました。

「私が特許を独占すれば、日清食品は大きくなるかもしれない。しかし、しょせん野中の一本杉に過ぎない。業界全体で力を合わせて、大きな森として発展する方がよいのではないか」

製法特許の技術を公開したのです。希望する会社にはその使用を許可しました。使用許諾を受けた会社は六十一社に及びました。品質は安定し、消費者の信頼も高まりました。インスタントラーメンは戦後に生まれた新しい加工食品として、どんどん市場を広げていきました。百福の英断はインスタントラーメンが大きな産業として発展する礎となったのです。

落ち着いた生活

ふたたび、落ち着いた生活が戻ってきました。

夏になると、家族はよく車で和歌山の白浜海岸に海水浴に行きました。明美(長女)はいつも車に酔ってうつむき加減、宏基は百福と魚釣りに夢中でした。仁子は沖に出て、泳げない百福にいつものように「はい、ここまで」と声をかけていました。

仁子は子どもの教育に熱心で、宏基と明美をともに厳しいキリスト教の幼稚園に通わせ、進学校だった大阪学芸大学附属池田小学校(当時)に入れるために木下塾にも通わせました。

日曜日の朝になると二人は、百福に連れられて愛犬のシェパードと一緒に、よく近くの五月山に散歩に行きました。二人の楽しみは散歩の後、池田駅前栄町商店街にあるいしだあゆみ(俳優、本名石田良子)の実家のお店に寄って、クリームソーダを飲むことでした。

店は喫茶の他に洋装小物も売っていました。宏基はいしだと池田小学校の同級生で、何度か一緒にアイススケートに行った時のことを覚えています。いしだはいつもリンクの真ん中で、スイスイと踊りながら滑っていたそうです。

「私はへたくそだったので、いろいろ手をとって教えてもらった」と宏基は回想します。

いしだあゆみの姉の石田治子はフィギュアスケートの元オリンピック選手で、姉妹ともにスケートが上手だったのです。

ちなみに、2003年9月から半年間放送されたNHKの連続テレビ小説「てるてる家族」は、石田家の両親と四姉妹をモデルにした作品で、原作は四女の石田ゆりと結婚したなかにし礼の『てるてる坊主の照子さん』でした。

ドラマの中で、上野樹里が演じた三女の秋子が、中村梅雀演じる安藤百福をモデルにした安西千吉のチキンラーメン開発を手伝う場面がありましたが、これは両家が同じ大阪府池田市で近所だったことからドラマに挿入されたフィクションだったのです。

負けず嫌いは父親ゆずり

仁子は自分が幼少時に苦労したこともあって、子どもたちの自立を願いました。特に男の子の宏基を厳しく育てました。

宏基は小学校時代に、悔しい思いをしました。

「おまえの親父はラーメン屋か」とからかわれたのです。

「ラーメン屋のなにが悪い」と答えてケンカになりました。

家に帰って、百福から「日本一のラーメン屋になるんだよ」と言われてやっと安心しました。負けず嫌いは父親ゆずりだったのです。

宏基はいたずらが過ぎて、しょっちゅう仁子を困らせました。

ある時、自分より年下の五、六歳の子を集めて、近くの五月山にイノシシ捕りに行きました。ナイフで竹を削り、弓矢を作りました。それを肩に担ぎ、隊長気どりで山に入りました。すると、がさがさと音がして、イノシシが本当に出てきたのです。山を転げ落ちて逃げました。「全員、おしっこを漏らした」(宏基)というほど、怖かったのです。仁子から「五月山のイノシシ捕りには二度と行くな」ときつく怒られました。

「怒った時の母は鬼だった」

イノシシ捕りはやめましたが、いたずらは止まりません。

明美が天然パーマだったのをからかい、髪の毛にチューインガムをつけて取れなくしました。友達と相撲を取って骨折させました。花火をしていて向かいの家に火の粉が飛び、ボヤになりました。キリン草の茎をヤリにして投げ、友達の耳に刺さりました。

池田市内を流れている猪名川は時々台風で氾濫しましたが、そんな時は、川岸の水たまりにいる魚を捕ってきて庭の池に放し、釣りをして遊びました。百福が金魚を買ってきて、同じ池に放しましたが、この時は、明美と一緒にこの金魚を釣って、わざわざ三枚におろして犬に食べさせてしまいました。

仁子は迷惑をかけたご近所には、そのつど謝って回りました。宏基には厳しいお仕置きが待っていました。普通のいたずらの場合は、両耳を引っ張られました。何度も引っ張られたのでしょう、「だから、私の耳は左右に出ている」と宏基は今でも冗談で言うほどです。

「ごめんなさい」と素直に謝らない時は、柱に縛りつけられました。真っ暗な納戸に閉じ込められました。暗がりで、黒い缶に入ったキツネとタヌキの襟巻を見せられ、目だけが光っていて、夢に見るほど怖かったのです。

「勉強しなさい」と言われると、「今勉強しようと思っていたのに、やる気がなくなった」と口答えをして、また怒られました。とうとう、「あの子はほうっておきましょう」ということになりました。すると、「急にやる気が出てきた」(宏基)というのです。相当な反抗的少年でした。

宏基にとって、「怒った時の母は鬼だった」というほど、怖い存在だったのです。

※本稿は、『チキンラーメンの女房 実録 安藤仁子』(安藤百福発明記念館編、中央公論新社刊)の一部を再編集したものです。

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