近松、馬琴も…江戸文学は義経の美貌説が花盛り。司馬遼太郎は出っ歯をチャーム・ポイントに

歌川国芳の描いた皆鶴姫と牛若丸 (一部)「源氏雲浮世絵合 匂宮」1846年 大英博物館
英雄は勇ましく猛々しい……ってホンマ? 日本の英雄は、しばしば伝説のなかに美少年として描かれる。ヤマトタケルや牛若丸、女装姿で敵を翻弄する物語を人びとは愛し、語り継いできた。そこに見た日本人の精神性を『京都ぎらい』『美人論』の井上章一さんが解き明かす本連載。第5回は「歴史か文学か」、前回に引き続き「牛若」を取り上げる

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【絵画】明治に描かれた牛若の姿は?

前回●義経像の美化の裏に「美童」の存在…

出っ歯のぐあいも、「少しそり出でて」

室町時代の御伽草子に、『弁慶物語』という読み物がある。15世紀の前半にはできていたことが、わかっている。前にも言及したが、もういちどふりかえる。

この御伽草子は弁慶と義経を、まず京都の北野天満宮でであわせている。さらに、弁慶がいだいた初対面の印象を、こうあらわした。

「弁慶、又思ふやう、こゝなる男の尋常に気高さよ。これや此音に聞く牛若殿にてあるらん……御曹子の風情を見ければ……板歯(むかば)少しそり出でて、色白くて気高くこそましゝけれ」(『新日本古典文学大系 55』1992年)

この独白は、牛若時代の様子をとらえている。にもかかわらず、「板歯少しそり出でて」とある。少し出っ歯だったという。出っ歯説を、30歳前の時期におくらせ設定した『義経記』とは、あつかいがちがう。幸若舞とも、かさならない。『弁慶物語』は、出っ歯という顔相を、まだ若い「牛若殿」にあてていた。

しかし、醜面だったとは、書いていない。「気高」く見えると、容姿の全体像はほめている。出っ歯のぐあいも、「少しそり出でて」としるすにとどめていた。

『平家物語』の記述を、くりかえす。この軍記物は義経の出っ歯ぶりを、こうあらわした。「むかばのことにさし出でて、しるかんなるぞ」、と(岩波文庫 1999年)。前歯がとくにとびだしており、はっきりわかるというのである。

出っ歯がひどい。先行する『平家物語』のそんな書きっぷりを、『弁慶物語』はうすめている。「少しそり出」ているというていどに、おさめていた。

伝説上の盗賊・熊坂長範と牛若丸を御所人形で見立てる 「御所人形 熊坂長範と牛若丸」江戸時代 
出典: Colbase

『弁慶物語』は室町時代の文芸である。若年の義経を美少年にしてしまう時流は、とうぜんおよんでいた。だが、物語の書き手は、出っ歯という『平家物語』の義経評も、知っている。美少年として登場させたいが、出っ歯説もないがしろにはできない。書き手は、その両方におりあいをつけようとする。

歯は少しでているが、けだかくもあった。これは、出っ歯説と美少年説のあいだで妥協をはかった表記に、ほかならない。『義経記』などは、両説を少年時代と中年期にわけて、展開した。それを『弁慶物語』は、牛若時代の叙述部分に並存させ、両立をはかったのである。

出っ歯がチャーム・ポイントに

こういう手だては、現代の歴史小説作家も、しばしばこうじてきた。たとえば、司馬遼太郎の『義経』に、その典型例がある。作家は奥州の平泉で、少年義経にある少女とであわせた。そして、義経の「反っ歯」を見た娘に、「可愛い」と感じさせている(文春文庫 1977年)。出っ歯でも魅力があるという線で、ことをおさめていた。

宮尾登美子の『宮尾本 平家物語4 玄武之巻』にも、似たような処理がある。義経は木會義仲をうつため、1184年に入京した。そんな義経にとびかう街の評判を、宮尾はこうあらわす。「ちょっと反っ歯でおすわな。愛嬌あってかいらしな」、と(文春文庫 2009年)。

出っ歯がチャーム・ポイントになっている。こういう肯定的な出っ歯評の源流は、『弁慶物語』にある。ただ、『弁慶物語』以後、そこを前むきにえがいた文芸は、まず見ない。現代の歴史作家がこころみだすまで、まったく出現しなかった。少なくとも、私の見わたした範囲では。

『弁慶物語』よりあとの文芸で多数をしめるのは、少年義経の美貌説である。『平家物語』の出っ歯説からは、目をそむける。時代が下るにしたがい、そんな傾向は強くなる。

「牛若丸浄瑠璃姫之館忍図」楊洲周延 1886年 
出典:国立国会図書館デジタルセレクション

『浄瑠璃御前物語』は15世紀の御伽草子である。義経の美少年ぶりを、高らかにうたっている。たとえば、「御曹司の花の姿」に女たちのうっとりする場面がある。「牛若君と申は、そも三国一の少人とうけ給り候」という記述もある(『新日本古典文学大系 90』1999年)。三国一、つまり朝鮮や中国、あるいはインドまでふくめても、ならびたつ者はいない。世界一の美少年だというのである。

男色におぼれたのは、あなたの容色にまいったせい

つづいて、義経が登場する江戸時代の文芸を、いくつかのぞいてみよう。

まずは、近松門左衛門の『十二段』から。浄瑠璃の語り物で、初演は1690年だったという。今、紹介した『浄瑠璃御前物語』を骨子として、話はくみたてられている。

作中、女たちは「うし若」を見て、ほれぼれする。「美しさ尋常さ絵にも及ばぬ御風情……いとあてやかなる御容(かたち)……世界の器量を一つにして……も、いつかなゝ「届くまじ」(『近松全集 第三巻』1925年)。絵にもかけないほど美しく、またりっぱである。世界中の美形をあつめ、ひとつにしても、牛若ほどのことはないという。

女たちだけが、ときめいたわけではない。鞍馬山の天狗も、この美少年には脳殺されている。近松は天狗の口から、つぎのような告白を牛若へつげさせていた。「君が色香に魔道を失ひ衆道の巷(ちまた)に迷ひし故……」(同前)。自分が男色におぼれだしたのは、あなたのあでやかな容色にまいったせいである、と。

歌川国芳の描いた皆鶴姫と牛若丸。「源氏雲浮世絵合 匂宮」1846年 
出典:国立国会図書館デジタルセレクション

江島其磧(えじま・きせき)の浮世草子である『鬼一法眼虎の巻』(1733年)も、見てみよう。鬼一はいわゆる軍師だが、娘の皆鶴姫は牛若を一目で好きになる。「美童の形類なければ、皆鶴姫心をうつされ……」と、作者は事情を説明する(『其磧自笑傑作集 下巻』1894年)。群をぬく美少年であったというのである。

曲亭馬琴も『俊寛僧都島物語』(1808年)という読本で、牛若の美貌を書きたてた。女に見まがう、女にしてみたいと、随所でのべている。「花の精」にたとえられた美少女の舞鶴とならんでも、見おとりはしない。そんな牛若の様子を、馬琴はこう描写する。

「御曹子はまた……女にして見まほしきに、立ちならびては、花の傍(かたへ)なる花になん、劣らず勝らず見え給ふ」(『古典叢書 滝沢馬琴集 第四巻』1889年)

舞鶴は、花のように美しい。牛若もまた、花のようである。いずれがアヤメか、カキツバタ、と言わんばかりの文章になっている。

義経の美貌をひきあいに出す曲亭馬琴

馬琴には、『近世説美少年録』という読本もある。続編の『新局玉石童子訓』もふくめ、1829年から1848年にかけて出版された。とくに、義経が登場する作品ではない。だが、作中のあちらこちらで、義経の美貌をひきあいにだしている。

たとえば、その続編にえがかれた剣術競技の場面が、そうである(第41回)。試合の会場では、ふたりの美剣士が対決する。東側からは悪役の末朱之介晴賢、そして西側からは善玉の大江杜四郎が、あらわれた。両者を、とくにその美貌を、馬琴はそれぞれつぎのように表現する。

「一箇(ひとり)は是白面の美少年……女子にして見まほしき、昔鞍馬の御曹司も、かくやと思ふ可(ばかり)なるに……」(『新編日本古典文学全集 85』2001年)

「容止(かほばせ)の馨(にほ)やかなる……『是なん牛若御曹司の後身(のちのみ)としもいふべけれ』とて、心ある者は評しける」(同前)

あの人は牛若だ。いや、この人こそが牛若である。そんな想いが、また声も会場ではわきたったという。牛若は、若くて美しい武人を代表する、歴史上の象徴的な人物になっている。また、読者もこの牛若像をうけいれるはずだと、馬琴は考えていた。

ついでに、代表作の『南総里見八犬伝』(1814ー1841年)からもひいておく。その第79回で、馬琴は八犬士のひとり、犬坂毛野に物乞いへ身をやつさせた。だが、どれほどみすぼらしくよそおっても、美少年ぶりは表へでてしまう。

歌川国芳が描いた『南総里見八犬伝』の犬坂毛野
‘Inuzaka Keno Tanetomo from Story of Eight Dogs (Hakkenden)’, by Utagawa Kuniyoshi. Image via Metropolitan Museum of Art

その点を、路上の仲間はいぶかしがる。どうして、お前は「宿なし」になったのか。「鞍馬で遮那王、僧正坊でも弁慶でも、視紊(みまが)ふ縹致(きりやう)をもちながら……」(岩波文庫 1990年)。鞍馬の天狗や弁慶なら、遮那王と見まちがうほどの容姿が、お前にはあるのに。そうたずねている。

これ以上の引用はひかえる。とにかく、義経をとりあげる江戸文芸は、彼を圧倒的な美貌の人にする。美少年を作中へ登場させるさいには、義経のようなという比喩が、ままもちいられた。出っ歯うんぬんという否定的な文句を、江戸文芸で見かけることは、ほとんどない。

出っ歯説を、わざわざ書きたてた江戸時代の史籍

じつは、江戸時代の公式的な歴史書も、しばしば義経の容姿に言及した。なかには、文芸とことなり、出っ歯説を、わざわざ書きたてた史籍もある。

たとえば、『本朝通鑑(つがん)』である。これは、林羅山の草稿に、息子の林鵞峯が手をいれ、1670年に成立した。江戸幕府が林家に命じて編纂させた歴史書である。

その続編、『続本朝通鑑』の第75巻に、義経の記録がのっている。義経を知る者は、こう言っていたという形で、掲載されていた。すなわち、「長面短身色白反歯(ソレルハアリ)」、と(『本朝通鑑 第九』1919年)。

出っ歯であったという。こういう話を、わざわざ公的な歴史書に、書きとめる必要はあったのか。その点に、疑問をいだかないわけではない。しかし、とにかく出っ歯説も、歴史書にはのこっていた。江戸期になくなったわけでは、けっしてない。

水戸藩の史書である『大日本史』にも、同じような記述はある。巻187の列伝4に、それはのっている。「躯幹短小白哲反歯……源平盛衰記、平家物語」、と(『大日本史』1929年)。『平家物語』や『源平盛衰記』から、出っ歯説がみちびきだされている。

なお、この史書は水戸光圀(みつくに)の命令で、1657年に編纂がはじまった。完成したのは、ようやく20世紀にはいってから。1906年のことである。たいへん大部な著作だが、ここにも出っ歯説は採用されていた。

いっぱんに、学術的な歴史研究は、歴史的な人物の容姿を論じない。美形か否かにこだわることは、まれである。それでも、『本朝通鑑』や『大日本史』は、義経のルックスを書ききった。『平家物語』などは、出っ歯説をとっているのだ、と。

文学や芸能は美貌説、歴史が出っ歯説をたもたせる

それだけ、江戸期の文芸が、義経の美形説へ傾斜していたせいだろう。庶民の読み物や稗史類は、一方的に美貌の義経像をあおっていた。おりめただしい歴史家としては、釘をさしておく必要がある。そんな思惑もあって、『本朝通鑑』などは、出っ歯説を記入したのかもしれない。

『平家物語』にはじまる出っ歯説は、まず大人の義経を語るところに延命した。北陸からの脱出をあつかう幸若舞や、『義経記』の後半に、姿をとどめた時期がある。だが、江戸の文芸は、それをほとんど一掃した。美形説ばかりをはやすように、なっていく。

そうして、文芸から追放された出っ歯説は、歴史叙述に生きのびた。文学や芸能は美貌説にかたむき、歴史が出っ歯説をたもたせる。両説のそういうすみわけが、江戸時代にはできていたようである。

かつては、義経の年齢におうじ、文芸のなかで分配されたこともあった。それが、読み物のジャンルべつに再配置されたということか。

しかし、『平家物語』の出っ歯説が正しいというわけでは、けっしてない。この軍記物は鎌倉時代の前半に、形をととのえた。義経が生きた時代の、同時代な記録ではない。後世の編纂物である。出っ歯説も、事後的に増幅されている可能性は、けっこうある。

義経は出っ歯であるという。この指摘が『平家物語』で語られるのは、壇ノ浦海戦の直前にあたる部分である。ほろびゆく平家への挽歌をかなでる。入水する安徳天皇の可憐さ、美しさをうたいあげる。その前触れめいた箇所に、義経の品定めは挿入されていた。

おかげで、義経の容貌評価は割をくったかもしれない。美化されるべき平家や安徳帝の、そのひきたて役があてがわれたようにも思える。真理をうがっていそうに見える出っ歯説も、うのみにはできないと言うしかない。

義経のリアルな容貌など、実証的にはわからない

江戸時代の歴史書は、義経を出っ歯であったと書いた。同時代の文芸がくりかえした美少年説には、背をむけている。だが、その出っ歯説にも、文芸創作の都合でひねりだされた可能性はある。

『本朝通鑑』や『大日本史』は、いかめしい歴史書であった。義経は出っ歯であったと、ひややかにつげている。だが、そこにだって、別種の文芸はもぐりこんでいたのかもしれない。そもそも、義経のリアルな容貌など、実証的にはわかるわけがないのだから。

出っ歯説については、あとひとつ、まだ語れていないことがある。次回も、あいかわらずこれにこだわるが、おつきあいをねがいたい。
 

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