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【展覧会へ行こう!】天才仏師の仏像が東京に集結 文化部記者の「運慶」みどころリポート

国宝 無著菩薩立像 運慶作 鎌倉時代・建暦2(1212)年頃 奈良・興福寺蔵(黒沢綾子撮影)

 史上最も高名な仏師(ぶっし)といっていい。平安末期から鎌倉初期、ちょうど貴族から武士へ政権が移る乱世に活躍した天才、運慶(うんけい、?〜1223年)。現存作は三十数点とされているが、その約3分の2がいま、東京国立博物館(台東区)の「運慶」展に集結し話題を集めている。
「慶派」がアツい
 そもそも今年は春に奈良国立博物館で「快慶」展が開かれるなど、「慶派」がアツい。朝廷や貴族に絶大に支持された平安後期の大仏師、定朝(じょうちょう)以降、仏師集団は3派(院派、円派、奈良仏師)に分かれるが、うち奈良・興福寺を拠点とする奈良仏師を率いたのが運慶の父、康慶(こうけい、生没年不詳)。慶派とは、康慶以降の運慶一門を指す近代の呼称である。当時の規範だった、穏やかで起伏を抑えた定朝様(じょうちょうよう)ではなく、写実的でめりはりの効いた彫り口が奈良仏師の特徴だ。
 中でもダントツに個性的なのが変革者、運慶。端正な快慶の像も素晴らしいけれど、運慶の、まるで生きているかのような迫真性に満ちた造形にはグイグイ引き込まれる。仏像だからあくまで信仰の対象だが、つい「カッコいい!」を連発してしまう。
 運慶は何を変えたのか。初期から晩年までを代表作で簡単にたどってみよう。
端正なデビュー作
 国宝「大日如来坐像(ざぞう)」(1176年、奈良・円成寺蔵)は現存では最も早い、運慶20代の作。既に優れた人体把握力を見せているが、「運慶作品の中ではまだおとなしい、端正で整ったお像。スタートラインですね」と東京国立博物館企画課長の浅見龍介さんは解説する。
 台座の部材の裏側には、自筆で制作の経緯や署名、そして花押(サイン)が残されている。父の監督下とはいえ、自分の仕事をやりきったという若き仏師の達成感、自負心がのぞく。
個性が爆発
 運慶の独創性が花開いたのは、北条時政(1138〜1215年)の注文で造った静岡・願成就院の5体。中でも国宝「毘沙門天立像(びしゃもんてんりゅうぞう)」(1186年)は堂々と胸を張り、引き締まった肉体にエネルギーが満ちて見える。元横綱・貴乃花親方の現役時をほうふつさせる姿。それにしても毘沙門天が武将のような顔立ちをしているのは、運慶なりに武家の好みを意識したからだろうか。
 運慶は平家の南都焼討(なんとやきうち、1181年)で灰燼(かいじん)に帰した興福寺、奈良・東大寺の復興に尽くし、京の貴族の依頼も受けたが、同時に新興勢力である東国武士の求めにも積極的に応じ、多くの仏像を制作した。古い伝統に縛られず、大胆に個性を発揮しやすかったのだろう。
 現実の人体を観察し、骨格や筋肉の付き方までいきいきと写実的に表している。思えば、ルネサンスのミケランジェロ(1475〜1564年)よりもずっと早い。
 「鎌倉時代の人々が仏像に求めたのは、仏が本当に存在するんだという実感だったろうと思います」と浅見さん。動乱の時代、力強い実在感のある運慶の作風は、武士の好みに合っていたのだろう。地元・奈良で学んだ古典をベースにしつつ、運慶は新しい感性で、伝統(定朝様)を乗りこえたのだ。
“目力”がすごい
 和歌山・金剛峯寺(こんごうぶじ)の国宝「八大童子立像(はちだいどうじりつぞう)」(1197年頃)は完成度が高く、見比べて楽しい作品だ。八代童子とは、不動明王の眷属(けんぞく)(従者)。歯を食いしばる清浄比丘(しょうじょうびく)童子、キッと鋭い視線を向ける烏倶婆迦(うぐばか)童子、冷静で利発そうな制多伽(せいたか)童子…。いずれも玉眼(水晶のコンタクトレンズのようなもの)を使っており目力がすごい。
 貴族女性の発願で造られたものらしく上品で、丁寧な彩色も見ごたえがある。
晩年の円熟を見よ
 晩年の運慶がたどり着いた境地を見せてくれるのが、興福寺の国宝「無著菩薩立像(むじゃくぼさつりゅうぞう)・世親菩薩立像(せしんぼさつりゅうぞう)」(1212年頃)。無著・世親の兄弟は北インドに実在した学僧で、法相宗(ほっそうしゅう)の教えを体系化したことで知られる。いずれも2メートル近い背丈で、重厚なたたずまい。枯れた中に、慈愛や精神的な深みがにじみ出ている。
 「実際の人物を写すというよりは、人間を超越した菩薩として大きく造ったのでしょう。ただ、表情は非常にいきいきとしていて、生きている人物のように見えます」と浅見さん。
 とりわけ研究者らが今回注目しているのは展示方法だ。いつもは無著・世親菩薩は興福寺の北円堂に、国宝「四天王立像(してんのうりつぞう)」は南円堂にそれぞれ安置されているのだが、今回は特別に、これらを組み合わせて同室に置いている。というのも、この四天王像も無著・世親菩薩とともに、かつて北円堂にあったのではないかという説が有力になっているからだ。
 激しい表情と派手な装飾が印象的な「動」の四天王と、「静」の無著・世親菩薩のコントラストが強烈。無著・世親は玉眼、四天王は彫眼(ちょうがん)(直接彫った目)と、目の表現が異なることにも注意したい。本当にこれらはかつて、同じ空間に置かれていたのだろうか。
 東京国立博物館によると今後、四天王像のX線CT調査をするという。像内納入品の有無、像の構造などを調査し、それらを無著・世親像と比較することで、手がかりがつかめるかもしれない。
息子たちのキュート&コミカルな作品も
 運慶には6人の息子がおり、いずれも仏師になったという。このうち運慶の後継として慶派仏師を率いた長男の湛慶(たんけい、1173〜1256年)、そして三男の康弁(こうべん、生没年不詳)による像を見ると、父の影響を受けつつ自らの作風を模索していったことがわかる。
 湛慶の像は繊細な情感をたたえ、どちらかといえば快慶の洗練された作風に近い。京都・高山寺(こうざんじ)の明恵(みょうえ)上人(1173〜1232年)は湛慶の腕を信頼し多くの仕事を依頼しているが、中でも「小犬」(重要文化財)は見る者をキュンとさせる逸品。耳を伏せて首をかしげ、前足をお行儀よくそろえて座る姿、つぶらな瞳…。明恵上人の、小さなものたちに向けた深い愛を反映したものだろう。
 運慶の写実的な筋肉表現をより強く受け継いだのは康弁だったようだ。彼が手掛けた国宝「龍燈鬼立像(りゅうとうきりゅうぞう)」(1215年)(興福寺蔵)は、燈籠を頭に載せつつ、まとわりつく龍を封じ込める邪鬼をコミカルに表しているが、ムキムキした腕や足など、リアリティーのある表現も見逃せない。
お寺で再会を
 今回の展覧会は運慶と縁の深い興福寺の中金堂が約300年ぶりに再建されるのを記念したもので、仏像を360度、ぐるっと見られる機会は極めて貴重。その上で、浅見さんはこう呼びかける。
 「お像は信仰の対象であり、造られた土地、安置された場所も大事。展覧会で感銘を受けたお像があれば、ぜひ今度は実際に安置されているお寺を参拝していただきたいですね」(文化部 黒沢綾子)

 興福寺中金堂再建記念特別展「運慶」 東京国立博物館(東京都台東区上野公園13の9)で、11月26日まで、月休。一般1600円、大学生1200円、高校生900円。問い合わせは(電)03・5777・8600。
 運慶 鎌倉時代を代表する仏師。写実と力強い重量感をとり入れて、時勢にあった力強い新様式を確立した。東大寺と興福寺焼亡後の復興造営に参加。建久7(1196)年、大仏殿の「持国天像」の造立を指揮。建仁3(1203)年、東大寺南大門の「金剛力士(仁王)像」を快慶と合作。その他、京都・教王護国寺(東寺)、同・神護寺など諸寺の造仏に従事した。