【お城探偵】明智光秀が築いた亀山城 要衝ゆえに消えた痕跡 千田嘉博

亀山城本丸の石垣。近世以降の積み直しが多い(筆者撮影)

 亀山城(京都府亀岡市)は「荒塚山」という小高い丘の上にあった。城を築いたのは明智光秀。光秀は河川と沼に囲まれた丘の地形に着目して大軍の攻撃を山城と同様に防げると見抜いた。
 さらに、丘の上の城は山城と比べ、城と一体になった城下を建設しやすい利点があった。軍事拠点としての役割だけでなく、丹波の政治・経済の拠点になる城を築くのに、亀山城のような平山城は最適だった。光秀の選択は、織田信長と同じように、中世にあって近世を見いだしていたと評価できるが、城から見ても光秀の先見性が分かる。
 亀山城を居城にした光秀は、信長の命で丹波の統一を成し遂げた。統一過程で光秀は、福知山城(同府福知山市)や黒井城(兵庫県丹波市)などの支城を築き、亀山城はそれらの本城としても機能した。統一は信長から「天下の面目をほどこした」(『信長公記』巻十三)とたたえられ、光秀の地位は向上。近江と丹波に所領を持ち、丹後や山城・大和の大名を従える光秀は、信長になくてはならない存在だった。
 1582(天正10)年、毛利氏と戦っていた羽柴秀吉は信長に出陣を要請。光秀は信長に先立って中国地方へ出発することになった。同年6月1日、光秀は亀山城をたち、老ノ坂(おいのさか)を越えて2日早朝、突如京都市中にある本能寺を襲撃(本能寺の変)。光秀は計画どおり、信長を討った。
 しかし、毛利氏と和睦した秀吉が信じられない速さで駆けつけ、山崎の戦いで光秀軍を破った。13日深夜、光秀は落ち武者狩りにあって、二度と亀山城に戻ることはできなかった。
 一方で亀山城は、光秀が見立てたとおり、近世に丹波の拠点として受け継がれ、城下町は発展。豊臣時代は秀吉の一族らが城主を務めた。江戸時代に入ると、徳川家康は譜代大名の岡部長盛(ながもり)を亀山城主とし、西国の諸大名に石垣や堀を築かせる天下普請で城を強化した。1610(慶長15)年頃には、外観・内部が5重5階の天守も完成した。
 つまり、亀山城は信長に謀反した光秀の心情を考える重要な手がかりになる城なのだが、要衝であるがゆえに光秀以降も改修が続いて、残念ながら現在公開されている範囲には、光秀を物語る城の痕跡が見当たらない。
 亀山城は現在、宗教法人「大本」の施設の敷地になっていて、本丸などは神域として立ち入りが制限されている。ただし、宗教行事に支障がなければ、受付に申し出ると本丸の手前までは見学可能で、石垣や堀などをたどれる。敷地内はみごとに環境整備されていて気持ちよく歩ける。
 見学できる範囲で本丸の石垣などを観察すると、石垣の隅石は荒割石と切石を用いていて、石材の長短を交互に積み上げた算木(さんぎ)積みになっている。観察できる石垣は全体に近世以降の積み直しが広範囲に及び、年代の特定は一筋縄ではいかないが、最も古い部分でも、光秀亡き後の慶長期と思われる。
 光秀が築いた亀山城がどのような姿だったのかは、優れた立地であること以外に分からないというのが、目下の正直なところである。現在の亀山城を見ながら、光秀に思いをめぐらすのは難しい。(城郭考古学者 千田嘉博)
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【用語解説】亀山城
 織田信長から1575(天正3)年に丹波攻略の命を受けた明智光秀が築城。天守は飾り破風(はふ)がまったくない様式で、今治城(愛媛県今治市)から移築したという説もある。明治以降も多くの建物が残っていたが、払い下げられ取り壊された。大本が1919(大正8)年に城跡を購入し、聖地として整備。政府による弾圧を受けた際に石垣なども壊れたが、教団が修復した。

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