【本郷和人の日本史ナナメ読み】政治は軍事の「おまけ」?(下)政務の地位、低かった鎌倉・室町

毛利元就像(模本、東大史料編纂所蔵)

 室町幕府には執事が置かれていました。将軍を補佐することを任務とする、幕府内でもっとも重要な役職で、初代の執事は「バサラ大名」としても有名な高師直(こうのもろなお)です。師直は将軍の親衛隊ともいうべき強力な軍を率いるとともに、政治にも深く関わりました。その結果、幕府の政務を管轄する足利直義(ただよし)(将軍尊氏の弟)と激しく対立し、滅んでいきました。
 師直のあと、執事には仁木頼章、細川清氏と有力守護が任じられ、やがて引付頭人(ひきつけとうにん)(政務を行う重要なポスト)の権限を吸収して管領(かんれい)と呼ばれるようになります。管領は将軍のもとで、政務の実権を握るようになりました。斯波(しば)、畠山、細川の三家から選ばれたので、これを「三管領」と称する、と教科書に出てきたはずです。
 さて、細川清氏のあとを襲ったのが斯波氏でした。この時の名称はいまだ執事でしたが、2代将軍の足利義詮(よしあきら)から就任を要請された斯波高経は喜ぶどころか、渋い顔をしたのです。執事というのは、足利本家の家来が任じる役職である。わが家は足利本家の家来ではなく、一族、親戚である。だから、執事に就任するのは家の恥である、という理屈からでした。
 たしかにそれまで執事に任じていた高、仁木、細川は家格は低かった。高は鎌倉時代から足利氏の家来としてさまざまな実務をこなしていましたし、仁木と細川は足利氏に出自を持ちますが、庶流で力が弱かったため、早くから家来として扱われていました。
 これに対して斯波氏は家格が高かった。そもそも斯波氏初代の家氏は正室を母にもつ、足利本家の跡継ぎでした。ところが母親の兄、名越(なごえ)光時(本家につぐ北条氏の名門)が本家に反旗を翻したため、母は連座して正室の座を追われ、家氏は後継者からはずされた。足利氏には北条本家から改めて正室が嫁いできて、彼女が産んだ頼氏が家を継いだのです。こうした経緯があったため、家氏の流れは格が高かった。代々尾張守に任じて「足利尾張家」と呼ばれて重んじられました。高経が誇り高かったのもうなずけます。
 ただし、そうはいっても、執事なり管領というのは政治の実権を握る立場。今で言うと幹事長とか官房長官並みの要職ですから、断る手はないだろうと現代のわれわれなら思う。ところがいい顔しないんだよなあ。高経は渋々子息の義将(よしゆき)を執事に据えて自身は後見役となるのですが、これは「政治を行う」ということ自体の価値が十分に把握されていなかった証拠となるのではないでしょうか。
 鎌倉幕府が成功した理由はいろいろあると思いますが、その一つは、源頼朝が文書行政という概念を理解していたことが挙げられるでしょう。彼はすでに旗揚げの時、都から地方に下向していた大和判官代(ほうがんだい)邦通(くにみち)(出自は明らかではない)という文人を配下としていて文書を作成させていました。彼が書く文書を通じて御家人の所領の管轄を行ったのです。立派な行政行為といえます。
 頼朝の力が大きくなると、大江広元や筑後権守俊兼(としかね)ら有能な人物が頼朝の召しに応じて都から下ってきて吏僚(りりょう)集団を形成し、幕府の運営が円滑に進むようになります。1221年、幕府が後鳥羽上皇と戦った承久の乱の時も、広元や三善康信の献策はたいへん有効でした。ところが、です。広元や康信の子供たちは、親の跡を継いで吏僚として活躍するのかと思いきや、みな筆を捨てて武士になってしまうのですね。たとえば中国地方の毛利家は広元の四男の子孫です。これなんか、政務の地位が低いことを示す好例だと思います。
 では鎌倉幕府の政治や裁判はどういった人たちが担っていくのかというと、奉行人(ぶぎょうにん)と呼ばれる人たちになります。生粋の官人出身者ではなく、武士なんだけれども文事に強い。そういう家が生まれ、代々吏僚として働き、室町幕府にも引き継がれていく。ただしその地位はさほど高くありません。どう見ても鎌倉・室町幕府で政治的発言権を持っていたのは、豊かな領地を持つ、すなわち優勢な軍事力を誇る有力御家人なり守護大名です。大きな領地を持つ人が大きな発言権を持つ。
 富と権力の重複。江戸幕府はこの点を改善します。広大な所領を有する外様大名は、幕府政治に関わらない。狭小な領地しか持てない譜代大名から、人を選んで政治にあたらせる。若手のやり手として台頭した松平正綱(知恵伊豆こと松平信綱の養父)は、現在の財務大臣のような地位にありながら2万2千石。関東支配の要である関東代官を務め、利根川の流れを大きく変える大工事を成し遂げた伊奈氏は1万3千石。こうした事例を見ると、うーん、富と権力は分離するとはいうものの、やっぱり政治の地位が低いんだなあ、と感じざるを得ません。
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 次回は10月3日に掲載します。
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 ■大江氏の後裔、毛利元就 1497~1571年。大江広元の四男、季光(すえみつ)は相模国毛利荘を所領として毛利氏を名乗り、御家人となった。季光と子供たちは1247年の宝治合戦で三浦氏に味方し、滅びた。四男の経光だけが生き残り、越後と安芸に子孫を残した。安芸の吉田荘を領した経光の四男(また!)時親(ときちか)の子孫が戦国大名・毛利氏である。
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【プロフィル】本郷和人
 ほんごう・かずと 東大史料編纂所教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。博士(文学)。専門は日本中世史。

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