【歴史の転換点から】江戸無血開城の「点と線」(3)西郷と勝 裏切りに見えた「誠」

旧田町薩摩藩邸跡に建てられた勝海舟・西郷隆盛会談碑=東京都港区(関厚夫撮影)

 勝海舟夫妻が眠り、東京都下の桜と紅葉の名所・洗足池公園のお隣に7日、大田区立勝海舟記念館がオープンした。歴史的建造物を増・改築した鉄筋コンクリート造り2階(一部3階)建てで床面積は850平方メートル。CG映像をはじめ視覚効果を凝らしたコーナーが並ぶなか、史料展示のメーンはやはり「江戸無血開城」である。西郷隆盛との会談を前に、最後の将軍・徳川慶喜が勝を「千両箱」と持ち上げ、頼りにしていた-と伝える勝の盟友・大久保一翁の書状が初公開されている。
勝の使命-日本人として
 慶応4(後の明治元=1868)年3月13、14日(旧暦)の両日、西郷隆盛との会談にのぞんだ勝は2種類のミッションを自らに課していた。
 まず徳川宗家の家臣として、朝敵となった主君・慶喜の助命を確定させること、またできるだけ現状に近い勢力を維持したまま、宗家を存続させることである。そして「家」や「藩」さらには身分を超えた一個の日本人として、百万を超す人口を抱える江戸を戦火から救い、諸外国の介入を招く内乱の勃発を回避したうえで、日本という国(勝は「皇国」という言葉を使っている)を次代に継承することだった。
 勝の日記類によれば、初日の会談では薩摩出身の天璋院(13代将軍・徳川家定夫人)や明治帝の叔母にあたる静寛院宮(14代将軍・徳川家茂夫人)の安全に関する協議に終始。本題の「徳川家処分」については翌日に持ち越された。そして運命の14日-。
 「今日天下の首都においてわが徳川家の興廃のために一戦し、わが国民を殺すことはわが君(慶喜のこと)は決してなさざるところ。新政府による徳川家処分が公平至当ならば、天に恥じることなく以後、朝威は輝き、皇国が正しい道を進んでいることによる感化は全国におよぶ。海外もまたそれを聞いてわが国に対する考えを抜本的に改めよう。これはわが君の願いであり、われわれ家臣の理解がおよぶことのできない、わが君の憂慮でもある」
 勝は口上をそう切り上げた、と「慶応四戊辰(ぼしん)日記」で述べている。要請しているのはまず慶喜、そして徳川宗家に対する寛典である。これに対する西郷の答えが「自分だけでは決められないため、駿府(静岡市)に控える東征大総督の有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王に相談申し上げる」という、翌日に控えた江戸城総攻撃の延期(結果的に中止)宣言だった。
 「おかしい」と感じる方も多かろう。勝は、山岡鉄舟を通じて西郷が伝えてきた開戦回避のための7条件に対する旧幕府側の回答書を携えていた。にもかかわらず、日記ではその最大の争点に関する協議にまったくふれられていないのだ。この「勝の沈黙」に関して興味深い証言がある。
勝、虚々実々
 西郷「まずは徳川慶喜についてはわが命令にすべて服すという恭順の実を示していただきたい。それがかなえばどこで恭順しようともかまいませぬ。ところで江戸城は近々に受け取ることができましょうか」
 勝「すぐお渡し申し上げよう」
 西郷「兵器弾薬の引き渡しについてはいかが」
 勝「それもお渡しする」
 西郷「軍艦は?」
 勝「そこが問題。陸軍ならば拙者の力でどうにかして穏当に引き渡せるだろうが、軍艦となると思うままにはゆかない。榎本武揚(海軍の実権を握る旧幕府海軍副総裁)たちが即座に官軍に刃向かうわけではないが、軍艦すべての引き渡しは請け合いかね申す」
 14日の勝・西郷会談に同席することになった新政府軍幹部の渡辺清(大村藩士。維新後は福岡県令や福島県知事を歴任)が、明治31(1898)年に語った「概略」である(『史談会速記録 第68集「江城攻撃中止始末」』)。また改めて江戸城開城と兵器・兵隊の「是非急」な引き渡しを求める西郷に対して勝は「それはしばらく待ってもらいたい」と制し、以下のように述べたという。
 「きょうもし開城・引き渡しを発令するとわが君は主戦派によって拉致され、われわれは真っ先に命を奪われるだろう。命を惜しむわけではないが、それでは徳川家による300年の平和の功績も無となり、天に対して申し訳なく、朝廷に対しては大罪となる。ここはしばし『江戸鎮撫』といったあいまいな表現にとどめていただきたい。その後、(開城・兵器引き渡しについては)いかようにもしてゆくから」
 整理しておきたい。
 全面戦争を回避するための第一の条件は、当時すでに江戸城を出て上野・寛永寺に謹慎し、恭順姿勢を示していた徳川慶喜の助命である。これを拒否されれば勝自身が先頭を切って銃を取り、江戸城下に火を放たざるをえなくなるのだが、山岡鉄舟の下交渉と勝自身による本交渉によってクリアできる道筋は立った。
 だからといってひと安心できるような情勢ではない。江戸には恭順に不満な旧幕臣や佐幕派の諸藩の兵も多く、彼らと新政府軍が小競り合いでも始めようものなら全面戦争に発展する可能性が多分にあった。
 それを未然に回避するには徳川宗家が所持する膨大な量の兵器や新政府軍を圧倒する力がある軍艦の取り扱いが鍵を握ることになる。この問題については新政府軍側が「すべての引き渡し」を求めているのに対し、旧幕府側は「当座は現状維持、徳川家に対する最終処分が決まった段階で減封相応分を返還する」として鋭く対立していた。
 もちろんこのことは「旧幕府代表」の勝が西郷に渡した回答書に盛り込まれている。ところが、前述の渡辺の証言によると驚くべきことに、勝は兵器・軍艦の引き渡しについての旧幕府側の主張を骨抜きすることを独断で請け負っているのだ。
 渡辺の記憶違いや作話の可能性もある。しかし、次回以降に述べる理由によって、勝・西郷会談から30年後の証言とはいえ、その信憑(しんぴょう)性はかなり高いのである。旧幕府側にすれば、この勝の言動は「裏切り」に近い越権行為である。だからこそ彼は日記で沈黙したのだろう。
勝の「誠」とは
 「あてにもならない後世の歴史が、狂といはうが、賊といはうが、そんな事は構ふものか。要するに、処世の秘訣(ひけつ)は誠の一字だ」
 晩年に至った勝の談話集『氷川清話』にはこんな発言がみえる。
 「誠の一字」。勝日記の「沈黙」を考えると皮肉な響きがしないでもない。が、渡辺は会談のさいの勝に「誠」をみたという。
 「以上申し上げたことについて諸君は疑念を抱くだろうが、拙者は同時に旧幕臣からも疑念を受けてその間に挟まっている。わが君も同様の逆境のなか誠意を尽くそうとしておられる。いまではわが君といえども、号令一下に家臣を従わせることはできない。そこにきて明日、江戸城を攻撃するならば、わが君の精神が水泡に帰すばかりか江戸はもちろん、天下の大争乱になるのは目に見えている。ともかく明日の戦争は中止いただきたい」
 そう口上を締めくくった勝について渡辺は「実に見事と敵ながら感じ入った」と語っている。
 教条主義者や主戦派は「狂」や「賊」と非難するかもしれない。だが、会談での勝は西郷に対して驚くほど直截(ちょくさい)であり、日本人として江戸と徳川家を戦火から救いたいという思いに満ちている。そんな彼の「誠」が西郷に通じなければ、明治維新はよほど違ったかたちになったはずだ。(編集委員 関厚夫)

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