いかに書き、そして撮るのか? 「仮固定」の仮の度合いを高め、偶然性の余地を広げる

千葉雅也の「実用的な哲学」というスタイルができるまで。画よりも「対話」から生まれる濱口監督映画〉から続く

 音楽、絵画、小説、映画など芸術的諸ジャンルを横断して「センスとは何か」を考える、哲学者の千葉雅也さんによる『センスの哲学』。「見ること」「作ること」を分析した芸術入門の一冊でもあり、『勉強の哲学』『現代思想入門』に続く哲学三部作を締めくくる本書は、2024年4月の発売以来、累計55000部のベストセラーに。

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『寝ても覚めても』『ドライブ・マイ・カー』などの監督作で知られ、話題の最新作『悪は存在しない』に続き、映画論『他なる映画と』全2冊を出版した濱口竜介監督との対談が実現。大学時代からの旧知の仲でもあるというふたりの待望の初対談は、「鑑賞と制作」(見ることと作ること)の深みへと展開した。「文學界」(2024年9月号)より一部抜粋してお届けします。(最初から読む)

流れで、出てくるように書く

 濱口 作り方の話でいうと、千葉くんに聞きたかったのは、『勉強の哲学』以降は文体も変わっていますよね。単純にいうと多分2点あって、ひとつは翻訳したときに従属節みたいなものがあんまりない。文章自体が短くなっている。もうひとつは、読点の数。この読点は肉体化されているものだと思うんだけど、読点をすごく意識的に打っているように見える。だから、こんなに一つ一つの文章が分かりやすいんじゃないかなと思ってるんですけど、その辺はどうですか。

 千葉 まず、凝った従属節はあんまりやらないようにしてます。とにかく流れで、出てくるようにして書いちゃう。あと、音声入力も部分的に使ったりとか、仕事によっては語り起こしのエディットとかを組み合わせたりするので、その流れを生かすこともあります。出てくるようにということだと、保坂和志さん的なところもあると思います。そして小島信夫。後期の小島信夫は、ただそのままというか……いや、そのままって言ってもそこに技術があるんですけど。大きく言えばそういう方向に変わりました。

千葉雅也氏。
1978年生まれ。東京大学教養学部卒業。パリ第10大学および高等師範学校を経て、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コース博士課程修了。博士(学術)。立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(第4回紀伊國屋じんぶん大賞、第5回表象文化論学会賞)、『勉強の哲学――来たるべきバカのために』、『アメリカ紀行』、『デッドライン』(第41回野間文芸新人賞)、「マジックミラー」(第45回川端康成文学賞、『オーバーヒート』所収)、『現代思想入門』(新書大賞2023)など著書多数。

 濱口 音声認識されたものは、ちゃんと読点打ってくれる?

 千葉 いや、それは後からです。読点は、どっちかっていうと僕は減らしたつもり。一時期は非常に神経質にアーティキュレートしなきゃいけないと思ってたけど、それも緩くして、その時の感じで、読点なしでずらずらと続けてOKだと思えるときと、どこかここは一回切らないと駄目だというときがある。『センスの哲学』は、もしかするとちょっと多いかもしれない。『現代思想入門』のほうが少ないかな。

 濱口 話してることの内容の違いは多少ある?

 千葉 『センスの哲学』のほうがひと呼吸置いて、読者に一回消化してもらって次に行く、というのがあるかな。『現代思想入門』のほうがもっとザーッと話を流している。僕の感覚としては、『センスの哲学』のほうがテンポが遅いですね。自分の持ってるノリと書き言葉をどうやってつなぎ直していくかは、長年かけて実験してきました。大学院時代には、先輩たちを意識して文章を相当直したわけです。それでかなり良くなったけど、それから時間が経って、以前のもっと野蛮だったときに戻っている感じもある。

 濱口 それこそ文章の中に自分の身体性を、よりアップデートした形で、アカデミズムも通過した形で回復させる。

 千葉 そう、通過した上で、高校時代とか大学1、2年生の頃にもう一回戻る。そういうことはあるんだと思います。

視覚的なイメージはどこから生まれるか

 千葉 それで、聞いていた途中のことに戻ると、対話劇の重要性は分かった。じゃあ、人がいないような風景とか、それはどう考えてる?

 濱口 これがまず苦手で。視覚的に何かを考えるのは、基本的にはすごい苦手だったんです。なので結局、対話によって展開される物語を引き連れている。例えば家の中でも、横浜の街の話をしているんだとすれば、横浜の町の実景をぽんと入れる。そういう因果的な発想でやってることが多かったんです。

 視覚的なもので発想することができないから、そこで始めたのは、源流をさかのぼれば、神戸に住んで作った『ハッピーアワー』なんだけど、リサーチですよね。実際に視覚的なモチーフを発見する。発想ができないのであれば、実際にある、そしてそれを一体どういうポジションから撮るかということを、足で見つける。

 千葉 取材に行くと。

 濱口 『悪は存在しない』もリサーチでできているんだけれども、まず撮影地を決めるんですね。今回は石橋英子さんが実際に音楽制作されている場所にしようと。限定性がないと作れないから、石橋英子さんの音楽が生まれてる場所で撮ろうということを、まず考える。それから、地元のご友人を紹介していただいて、その人たちに話を聞く。その人たちに話を聞きながら、どんな暮らしをしているか、実際に連れて行ってもらう。そうすると、こういう所で暮らして、こういうことをやっているんですねと分かる。カメラマンと一緒にリサーチをしていたので、ここでこういうものが撮れるんじゃないかと話す。何を撮るかは、結局、視点が決定的なわけです。同じものでも、どこから、どの距離で撮るかによって全く変わってしまう。

 千葉 それは、発売されたばかりの著作、『他なる映画と 1』の一番最初に書いてありますよね。

 濱口 そうです、「映画の、ショットについて」でも書いていますね。

リサーチの情報量とその限界

 濱口 『勉強の哲学』で、アイロニーとユーモアと享楽的なこだわりを三すくみで葛藤させていく、という図式があったと思うんですけど、それに近いというか、リサーチはやっぱり現実ですごく情報量が多い。ものすごく役に立つものなんです。自分の中にそれが落とし込まれていって、かなり直接的に作品に反映することができる。ただ、リサーチには限界があって。一つは、それが本当に必要なものなのかどうか分からないまま、横すべりしていく傾向があるっていうことなんです。

 千葉 結局、何を見つけに行ってるのかが分からなくなると。

 濱口 あれもこれも見つかりましたけど、それが何に使えるか分からない。プラス、これは関係性にもよるんだけれども、人のプライベートってそんなに聞いちゃいけないわけです。人間生活の重要な部分を、簡単に掘り下げられはしない。もし聞くんなら、ある種の覚悟が要る。何でもかんでも聞くわけにはいかないという局面に、ぶち当たることがある。そこでどうするかというときにやっているのは、プロットを書いた後のことが多いんだけど、サブテキストを書く。

 このサブテキストは、キャラクターに関する情報みたいなもの。『ハッピーアワー』を作っていたときは個ぐらい、例えば何が好きですか、とか、家族と仲がいいですか、とか、質問表みたいなものを作って、想定しているキャラクターにそれを答えさせていく。これもある種、対話形式なんですけど。

 千葉 仮想カウンセリングみたいなものですね。

 濱口 それでそのキャラクターの、物語の必要性を超えて、情報量を増やしていく。その中には、普通だったら聞けないような、セックスは好きですか、とか、人を愛することはあなたにとってどういうことなんですか、みたいなことを聞いたりする。キャラクターの傾向によってはそれに答えなかったりするから、それをさらに深掘りするみたいな、よく分からないフィクショナルな遠回りもあるんですけど。こうすると、ある種の仮想的な深掘りが可能になっていって、キャラクターが準-他者化していく。要するにキャラクターってプロットができてる場合、構造の要請に従って動くわけですよね。でも、その要請に従って動き過ぎると、面白くないわけです。すごく世界が平板化する。

 千葉 もっと余りも欲しいってことですよね。物語以外のところでは、全然違う動きをしている可能性があるわけで。

フィクションゆえの「仮固定」

 濱口 キャラクター一人一人は、たまたまこの物語の状況に出会っているだけであって、彼らは彼らの人生を生きているはずである。あくまで自分の中で仮のものとして考えながら、その情報を増やしていくと、容易にはキャラクターが動かなくなる。これは本当にいいことと悪いことがあるんですけど。物語の要請に従って、それこそロールプレイングゲームみたいに、聞いて、情報を教えてくれるみたいなやりとりがあったら、話はぱんぱん進む。でも現実生活ではそうはならないじゃないですか。

 千葉 聞いていると、やっぱりすごく人間を扱っているんですね。でも、半分、彼らはバーチャルな存在となっているわけでしょう。それこそ分析的にいえば、自分の中にある何かがそういうアバターとなって、それを複数のものに分極させて、その間の関係性がいろいろ展開していく。

 濱口 これはサブテキストを書くうえでの問題で、結局、自問自答とか自分の投影みたいになる可能性が高い。でもキャラクターが自分になってしまう問題を避けるために、もう一回リサーチして、職業的な背景を加えたりする。ただ、そうするとリサーチもサブテキストも、物語を構築していく作業を邪魔する要素でもあるんです。どんどん拡散していくし。そこで、でもこれは、いま私が書いてしまうフィクションなんだから致し方がない、という本当にまさに仮固定をする。

 千葉 プロットは、ある種の切断でもある。今回はこのプロットでいくか、とそういう感じなんですかね。

 濱口 そう。毎回、ひどいプロット書いたな、みたいな感じになるんですけど。

「偶然性」の余地が大きかった『悪は存在しない』

 千葉 『悪は存在しない』も、プロットとしては分かりやすい話じゃないですか。資本主義と山の生活の対比がある。でも、それは取りあえず仮に設定されている感じがあって。別にそうじゃなくてもよかった、そういう感じがしました。

 濱口 そうですね、と言っていいのかなみたいになるけど(笑)。結果としては、千葉くんの用語を使うと、仮固定の仮の度合いがより高いものが、今回はできた気がしましたね。今までのものは対話によって因果的に展開をしていく、ある種、意味的なものが確実に強く存在しているようなものを書いてきた。

『悪は存在しない』では緩みがより強くて、いろんなものが入ってこれたり、ある部分はあってもなくても問題がないような形で成立させている。だから、撮影中でも仮の度合いを更新できるというか、新たに撮影をしていて出会ったものとか、もしくは俳優がしてしまった演技みたいなものを通して変わっていく。なので、その偶然性によって映画自体ができていく、という体験でした。これは楽しかったですね。

(千葉 雅也,濱口 竜介/ノンフィクション出版)

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