「え?!豚ですか?」国際線の機内上映向け映画だった『紅の豚』がジブリの“名作”になるまで

 “この映画は、飛行艇時代の地中海を舞台に、誇りと女と金をかけて空中海賊と戦い、紅の豚とよばれた一匹の豚の物語である。”

【約30年前】1992年2月の『紅の豚』製作発表。宮崎駿監督が若い…!

 日本語を含めた10ヶ国語分のあらすじがタイプライターの打刻音とともに、宮崎駿監督がデザインした日本テレビのシンボル「なんだろう」10匹(?)から現れる。アラビア語だけ右からだったり、下2行のフランス語とドイツ語だけほんのちょっと長かったりと、どこか冗談まじりでユーモラスな雰囲気が漂うこのシーンから「どうやらこの映画は気楽に見ていいようだ」という“お気楽さ”が見るものの肩肘を和らげる。

『紅の豚』(1992)はまさしく宮崎駿監督が冗談半分で企画した作品であった。最初は。

 

本当は国際線の機内上映向け映画だった『紅の豚』

『紅の豚』は宮崎作品の中でも、もっとも監督の個人的な映画として知られる。

 当時“ド中年”だった監督自身が豚で中年の主人公ポルコ・ロッソに投影されていることは、多くの人が指摘するところである。

 そもそも本作の企画の発端は、『となりのトトロ』(1988)や『魔女の宅急便』(1989)と立て続けに監督して疲弊していた宮崎監督に、プロデューサーの鈴木敏夫氏が「ここはひとつ好きな飛行機映画でも作ってもらって気分転換してもらおう」と思い立ったことだった。

 つまり本作が製作されたのは宮崎監督への“慰労”が目的だったのである。

 当初は劇場作品としてではなく、15分から45分程度の短編作品とした企画であった。

 しかし当時製作していた高畑勲監督の『おもひでぽろぽろ』の完成が(この頃のジブリでよく見られたように)延びたために『紅の豚』の正式な製作はなかなか開始されず、準備室として宮崎監督たったひとりでスタートした。

 いつまでたっても『紅の豚』にスタッフが合流できない中、『おもひでぽろぽろ』の製作に付きっきりとなっていた鈴木氏の机には「紅の豚、俺ひとりでやれというのか」と宮崎監督の置き手紙があったという。(鈴木氏はそれを無視)

 その後本作はJALの国際線での機内上映作品として正式に製作が決定されたが、宮崎監督の絵コンテの段階で(こちらもこの頃のジブリでしばしばみられたように)尺が伸びたことで、結局は製作予算の回収などを考えて劇場公開作品にせざるを得なくなったのが実情であった。

主人公、タイトル…「え?! 豚ですか?」

「え?! 豚ですか?」

 JALの担当者は鈴木敏夫氏との打ち合わせではじめて『紅の豚』のタイトルを聞いたとき、そう言って絶句した。その後もタイトルに「豚」があることがJALでは問題となり、役員会では「JALが初めて製作する映画が豚では困る」との意見が出たという。

 果たして鈴木氏はJAL側の宣伝部長を説得。なんとかタイトルは『紅の豚』で行くことがJAL側でも了承され、新聞紙上では旅客機の窓の向こうをポルコの飛行艇が飛んでいるビジュアルで全面広告が打たれた。(とはいっても『紅の豚』というタイトルは下部に小さく描かれた)

 しかしその時点ではまだJAL側は『紅の豚』というタイトルを社長に報告しておらず、完成披露試写会当日にJALの利光社長(当時)が見に来るまで社員は誰もタイトルを社長に言えなかったというから、当時の現場は生きた心地はしなかっただろう。

 1992年7月18日に公開された『紅の豚』は、公開時に全国17都市をめぐるキャンペーンを実施。宮崎監督も参加し、46億円の興行収入で日本映画・外国映画の総合で1位を獲得した。

 この後、『もののけ姫』でも監督自身は宣伝活動に参加し、“宮崎駿”というブランドは同作の大ヒットとともに名実ともに確立されていく。

「どうして豚なんですか」その答えは…

「どうして豚なんですか」

 と、宮崎監督に聞いたのは当のプロデューサーの鈴木敏夫氏であった。

 本作の製作過程では「豚」であることが様々なところで引っかかっている。一方で、宮崎監督自身は豚であることになんの疑問も持っていなかった。そもそも原作である『飛行艇時代』(大日本絵画)でも、主人公が豚であることに一切説明はない。

 同書は雑誌『モデルグラフィックス』で不定期に連載していた宮崎監督の趣味全開の『雑想ノート』内で連載されたもので、自身の分身でもある豚が戦車や飛行機を解説するエッセイマンガに近い作品であった。つまり原作では登場キャラクターが豚であることを説明する必要はなかったのである。

 映画でも島めぐりの観光艇に遭遇したポルコを見つけた乗客が「豚さんよ~」「カッコいい~」と口にするように、劇中の人々はポルコが豚であることに驚きも疑問も持っていなかった。ジーナもフィオも、空賊たちも、新聞記者さえもポルコが豚であることを気にしてはいない。

 しかし鈴木氏から「どうして豚なんですか?」と聞かれた宮崎監督は「どうして豚なんでしょうね」とスタッフに質問を投げかけ、本作の作画監督である賀川愛(めぐみ)氏から「自分で魔法をかけたんじゃないですか」と“答え”をもらい、映画には“豚である理由”が付けくわえられた。

 当然「なんで魔法をかけたんですか?」という質問が鈴木氏から出るが、“その理由を知っている”キャラクターとして、本来は原作に登場しないホテル・アドリアーノのジーナが重要な役として作られていったという。

 中年の投影だけではない宮崎監督の『紅の豚』

『紅の豚』製作前、スタジオジブリは『おもひでぽろぽろ』の完成で、それまでの『天空の城ラピュタ』(1986)、『となりのトトロ』、『火垂るの墓』(1988)、『魔女の宅急便』を含めて、ほぼ全世代向けの作品を一通りやりきったことで区切りを迎えてしまい、次作の企画を模索している最中だった。宮崎監督曰く、“崖っぷち”だったという。そんな中で監督自身は小品(の予定だった)『紅の豚』を作ることを“リハビリ”と呼び、企画書を作っている段階でも半分冗談であったともいわれている。

 その冗談半分は「紅の豚メモ 演出覚書」にうかがえる。

 “国際便の疲れきったビジネスマンたちの、酸欠で一段と鈍くなった頭でも楽しめる作品、それが「紅の豚」である。少年少女たちや、おばさまたちにもたのしめる作品でなければならないが、まずもって、この作品が「疲れて脳細胞が豆腐になった中年男のための、マンガ映画」であることを忘れてはならない。”

 と、かなり肩の力を抜いたリラックスしたものとして『紅の豚』の企画はスタートしている。

 宮崎監督もまさか豚が赤い飛行機に乗って空中戦を繰り広げるような企画にJAL側がOKを出すはずがないと踏んでいたらしく、ダメ元でかなりノーテンキに企画書を書いていたようである。

 しかしそこは宮崎作品である。80年代から90年代という時代はソビエト連邦の崩壊と湾岸戦争、ユーゴスラビア紛争が起き、世界情勢の大きな変化が『紅の豚』の作品に、そして監督自身に影を落としていった。

 とくに製作中の1991年に起こった民族紛争であるユーゴスラビア紛争は監督にとって「しんどかった」らしく、理想としていた近代ヨーロッパが先の戦争にまったく懲りていなかったことや、前時代的なイデオロギーや民族主義が再び台頭してきたことはかなり堪えたという。

『紅の豚』の舞台はイタリア半島と、問題のユーゴスラビアがあるバルカン半島に挟まれたアドリア海なのである。当時の世界情勢から考えてそんなところで豚が赤い飛行艇に乗って空中戦を繰り広げるノーテンキな活劇など宮崎監督には製作できるはずはなかっただろう。

絵コンテになかった「そういうことはな、人間同士でやんな」

 劇中、ポルコが銀行でお金をおろしたときに行員から「いかがでしょう、愛国債券などをお求めになって民族に貢献されてみては」と勧誘されるシーンがある。映画では「そういうことはな、人間同士でやんな」とポルコは返すが、実は絵コンテの段階でそのようなセリフはない。

 この完成した映画と絵コンテとの違いから、このポルコのセリフの変更は『紅の豚』の製作が進むにつれて変わりゆく実際の世界情勢への、監督自身の辛辣な言葉なのではないだろうか。

 また、ホテル・アドリアーノでジーナが歌う『さくらんぼの実る頃』(冒頭でもポルコの隠れ家のラジオから聞えてくる)のシャンソンは、挫折した1871年のパリコミューンへのレクイエムでもあることから、本作は監督の中年の危機を投影しただけでなく、宮崎駿監督の思想的な面でもとてもパーソナルな作品であるといえる。

『紅の豚』の女性と、女性の『紅の豚』

 映画では世界恐慌で男たちが出稼ぎにでてしまった町工場で、女性だけでポルコの愛機サボイアを作り直すシーンがある。

 設計主任は17歳のヒロイン、フィオである。

 設計がフィオと聞いてポルコは他をあたると修理を断ろうとするが、フィオから「わたしが女だから不安なの? それとも若すぎるから?」と問われる。

 宮崎監督は小さな町工場で技師が勘で図面を引いて、近所の女性たちを雇って飛行機を作るような、人間の勘やセンス、経験や熱意が飛行機の性能に影響を与えていた時代が大好きなのである。またそういった仕事には普遍的な「感動」があるとインタビューで語っている。

 そんなシーンは、そのまま『紅の豚』の製作陣にもあてはまる。

 本作では監督自ら「すべての重要な仕事は女性に任せよう」と決め、「女性で作る紅の豚」というキャッチフレーズまで作って、中心的なスタッフに女性を抜擢した。作画監督に賀川愛(めぐみ)氏、美術監督に久村佳津氏とアニメ製作で最も重要なポストに女性を起用している。また録音演出に浅梨なおこ氏など、製作クレジットをみると重要な仕事に女性が多いことに気付く。

 当時のアニメ制作の現場で、女性アニメーターは多くいたものの、製作の主要スタッフを女性で固めることは当時のジブリでも珍しく、アニメ業界でも画期的なことであったという。宮崎監督が理想とする家内制手工業的な町工場のスタイルは、そのままスタジオジブリの体制そのものであることは勘の良い方は察しがつくだろう。

「機内上映向け」から飛躍した『紅の豚』

『紅の豚』は宮崎監督の慰労として企画がスタートしたものの、あれよあれよと長編劇場用アニメに膨れ上がっていった。宮崎監督が当初思い描いていたノーテンキな空戦活劇アニメから、当時の世界情勢や監督自身の思想までもが投影されたことにより、結果それまでの宮崎作品の中でもとても個人的で複雑な作品となったのである。

 以降、宮崎作品は『もののけ姫』、『千と千尋の神隠し』と続けて大ヒットし社会現象を巻き起こしながらも、その作品世界はより複雑化し、奥行を増していくことになる。

 その端境期に生まれた『紅の豚』は宮崎駿作品の中でも重要な映画であるといえよう。

【参考文献】
『ジブリの教科書7 紅の豚』文春文庫
『風の帰る場所』宮崎駿/文春文庫
『仕事道楽 新版 スタジオジブリの現場』鈴木敏夫/岩波新書
『ジブリの仲間たち』鈴木敏夫/新潮新書
『飛行艇時代』宮崎駿/大日本絵画
『スタジオジブリ絵コンテ集 紅の豚』宮崎駿/徳間書店
『出発点1979~1996』宮崎駿/徳間書店
『ミヤザキワールド 宮崎駿の闇と光』スーザン・ネイピア、仲達志・訳/早川書房
『キネマ旬報 1992年 7月下旬号』キネマ旬報社

(すずき たけし)

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