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“儀礼的最高位としての天皇なんかはいらない” 歴史探偵・半藤一利が史料から読み解く「織田信長の極限思想」

 無心状であれ恋文であれ、遺書であれ、「手紙」には率直な感情が綴られるものだ。

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 歴史探偵・半藤一利氏は、歴史を彩る文人武人22人による美しい日本の手紙を読み解きながら、『手紙のなかの日本人』(文春文庫)を執筆した。ここでは同書の一部を抜粋し、織田信長が抱えていた思いを彼の手紙から推察する。(全2回の1回目/後編を読む)

半藤一利氏 ©文藝春秋

◆◆◆

簡潔無比の織田信長

 織田信長の書簡となると、つとに知れ渡っているのは、秀吉の正室のおね(のちの北政所[きたのまんどころ])にあてたユーモラスともいえるそれである。安土城にいた信長のもとに、沢山の土産(みやげ)をもって、秀吉の名代としておねがご機嫌伺いに参上した。信長はたいそう喜び、いろいろともてなした。無事ご機嫌伺いをすませて帰ったおねのあとを、追いかけるようにして届けられた手紙である。現代人にはいささか判じ難い文面になっている。

 おほせのことく、こんとはこのちへ、はしめてこし、けさんにいり、しうちやくに候。

 という具合なのである。これを読みやすく漢字入りにすると、

「仰せの如く、今度はこの地へ、はじめて越し、見参にいり、祝着に候。」

 となる。さらに訳せば、そなたの言うように、こんどこの安土へはじめて来られ、会うことができて嬉しく思った、という喜びの表明である。このあと、お土産品のお礼があり、お返しの品をと思ったが、適当なものもない、次の機会に何か考える、とあって、いよいよこの手紙の眼目のところとなる。

 就中、それのみめふり、かたちまて、いつそや見まゐらせ候折ふしよりは、十の物廿ほとも見あけ候。藤吉郎れん/\ふそくの旨申のよし、こんこたうたん、くせ事に候か。何方を相たつね候とも、それさまほとのは、又二たひかのはけねすみ、あひもとめかたきあいた、これよりいこは、みもちをようくわいになし、いかにも、かみさまなりに、おも/\しく、りんきなとに、たち入候ては、しかるへからす候。

 これを現代語訳してしまうと、かなり妙味がうすれるが、あえて訳す。

《それよりも何よりも、そなたの眉目うるわしさ、容姿まで、いつぞやお会いしたときよりも、十のものが二十ほどもきれいに見上げました。なのに、藤吉郎は何かと不足を申す由、言語道断で、とんでもない心得違いである。どこを尋ねたところで、そなた様ほどの方は、二度とふたたびあのはげ鼠が、相求めることはできないのであるから、これから後は、気持を明るくもって、いかにも正室らしく、重々しく振る舞われ、悋気などをごちゃごちゃ焼いてはなりませんぞ。》

 以下、ただし夫の世話をするのは女房の役目ゆえ、言いたいことをすべて言わぬようにするのも、大事である、なんて訓戒もちょっぴり述べている。そして署名は「のふ」とのみ。つまり「信」。思わず三拝したくなるような、優しさ、気楽さである。

秀吉が信長につけられていたあだ名

 ここで気付かせられるのは、秀吉が「はげ鼠」というあだ名を、信長につけられていたらしいことである。画像なんかに描かれた秀吉をみると、なるほど、よくぞつけたりの感がしないでもないところが、実におかしい。が、秀吉のあだ名は御存知「猿」ではなかったか、の疑問が余計なことながら残る。そのことについても、たしかな史料としての信長の手紙が現存している。

 細川藤孝、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀の四人あてで、日付は天正5年(1577)3月15日のことと推定される。

 猿帰り候て、夜前の様子、つぶさに言上候。まづ以て然るべく候。又一若を差遣はし候。其の面、油断なく相聞え候といへども、なほ以て勢を入るべく候。各辛労、察せしめ候、今日の趣、徳若に申越すべく候なり。

手紙が貴重な史料である所以

 冒頭の猿は、言うまでもなく秀吉である。これで秀吉が猿といわれていたことが明確になる。手紙が貴重な史料である所以である。そして手紙は、その秀吉が帰ってきて昨夜の様子をくわしく報告した。まずはそれでよかろうと思うが、なお油断なく一層努力せよ、と信長が武将たちにはっぱをかけている。信長の戦いぶりがおよそ察せられる文面になっている。

 それにしても、その日付からみると、このころ紀州の根来・雑賀の一揆軍を掃討せんと、武将たちは総出陣していたときである。秀吉も当然のことながら、草履取りとか足軽大将なんかではなく、長浜に城のある12万石の大名になっている。その彼を、他の武将への書簡で「猿」よばわりするとは……。いろいろ考えさせられる面白さがある。

 ところで、ここまで信長の手紙と書いてきたものの、信長の真蹟はほとんどない。現存する手紙は百通を超えるというが、正確にはほとんど信長の祐筆の手になり、自筆はほんの2、3通にすぎないという。今日にいう口述筆記である。そして日付の下に信長の署名や花押が書かれ、印章が押されている。印章では永禄10年(1567)、美濃の斎藤氏を滅ぼしていらいの、ご存じ「天下布武」が押されているのが多い。

信長の人柄が表れた文面

 一般に祐筆書きといえば、文書のきまりどおりの、型にはまった面白みの薄いものばかり、といっていい。ところが、信長は違う。迅速を好む人柄ゆえ、事務的な文面が多いのであるが、そこはそれ、さすが信長である。どれにも彼らしい簡潔さ、直線的な鋭さがみられる。さきの、いきなり「猿帰り候て」の書き出しなんか、余人にはとても見られない爽快さである。祐筆の手になるとはいえ、信長のしゃべりがそのまま伝わってきて、えらく信長が身近に感じられてくる。

 また、秀吉夫人おねあてもよそゆきでないざっくばらんさがある。それに信長は見かけによらず、なかなかにおんな心にも、通じていたようではないか。

 もう一通、18歳と最も若いころの手紙も例に引いておく。

 竹の事申し候ところ、弐十本給はり候。祝着の至りに候。なほ浄看申すべく候間、省略候。恐々謹言。

 竹を所望したら20本送ってきた。その礼状である。大事にするつもりである。あとは略すなんて、傑作な文章ではあるまいか。

 このように書簡は、この天才的武人の性格をそのままに示している。男らしく、きっぱりとしていて、その上に柔らかい心ももっている。ところが、政治的人間としての信長となると、そうはいかない。そこがこの人の面白さといえばいえるのであるが……。

政治人間信長の根本とは

 信長は、天文3年(1534)、四囲すべて敵の、尾張の一豪族の子に生まれた。そして、非凡な発想と独創にみちた行動によってあたりを平定し、「天下人」になったのは、実に天正4年(1576)という早さなのである。琵琶湖に面した安土に、日本最初の七重の天主閣をもつ城を築き、完備した城下町をつくり、楽市楽座を中心にした革新的経済政策を実行と、やることなすこと当時の人びとの理解をはるかに超えた。兵農分離や方面軍制戦闘組織などに至っては、もはや近代人の意識をもっていた。

 書簡の簡潔さが示すように、政治人間信長の根本にあるのは徹底した機能主義である。書簡の様式が破天荒なのも、彼が中世的な繁文縟礼(はんぶんじょくれい)をうるさがったゆえである。おそらく、中世的な伝統や秩序や教養などは虚飾にみちた阿呆の世界、と映じていたにちがいない。

非情なまでにしたたかな現実主義

 信長がすべての人間に要求したのは、あくまでも合理的な機能であって、かびのはえた伝統や、湿っぽい忠誠心などではなかった。鳴く機能をもっている時鳥(ほととぎす)が、もはやその機能を失ったというのであれば、飼っておく必要はないのである。癇癪持ちとか残忍ということではない。彼にあっては家柄とか門閥とかは鳴く機能を失った時鳥みたいなもの。ゆえに世間のしきたりや、形式万能の風潮を完膚なきまでに打破した。そのことは考えてみるまでもなく近代の合理精神に通じている。その意味で信長の思想と行動は、徹底した合理性につらぬかれており、非情なまでにしたたかな現実主義の上に立っていた。

 しかし、現実には、彼の思想と行動とが、まったく理解されないのであるから、多くの人びとを恐怖にかりたてた。専制君主としての強圧が人びとの不安をよりつのらせた。

 たとえば、比叡山焼き討ちがある。今になっても極悪非道のことのように説くひともいるが、歴史的事実は非が明らかに比叡山側にあることを示している。第一に、朝倉・浅井と結んで敵対する山門に対して、信長はきちんと外交交渉の誠意をみせている。そのとき出した信長の条件は、

 一、信長に味方するなら奪った山門領はすべて返還する。
 二、味方になれぬなら中立を守れ。
 三、そのいずれものめぬなら根本中堂をはじめ山王二十一社すべて焼き払う。

 という内容である。これに山門はひと言の返事もしなかった。尾張の小せがれ風情に何ができるか、という無言の宣戦布告は、いってみれば300年間の山門の横暴と驕慢に根ざし、背景には強大な武力がある。修行の山でも、仏の山でもなくなった比叡山は、信長にとっては、鳴かぬ時鳥にすぎなかった。

 こうして時代とまったくかけ離れた個性が、時代に圧しつぶされずに、時代の方を征服したのである。理解もされないままに。信長のすごさがそこにある。しかし、同時に信長の悲劇が、時代を超越した合理性と新感覚にあるのも、また事実である。

 天正10年(1582)6月2日、明智光秀謀叛と聞くと、信長はみずからも槍をとって防戦したが、衆寡敵せず、本能寺に火をかけて、自害する。享年49。あまりに早い死であった。

 歴史探偵のわたくしは、信長を葬る陰謀の陰に朝廷筋ありとにらんでいる。なぜなら、少しく思い当たる節があるからである。

関白をはげしく罵倒し、朝廷の祭祀のあり方を批判

 信長は執拗に朝廷にいって元号を「天正」に改めさせた。天正6年、「天下が定まるまで右大臣の職を辞する」と申し出て朝廷をあぜんとさせている。天皇から任命される官職に就きたくなかったのである。天正九年、正親町天皇に対して突然に譲位を強要する。同じ年、関白近衛前久をはげしく罵倒し、朝廷の祭祀のあり方を批判した。また、天正10年、朝廷の暦製作権にも介入している。

 改めて説くまでもなく、改元・皇位継承・官位叙任権・祭祀(国家祈祷)、そして暦製作権は、建国以来保持してきた天皇の至上最高の権限である。日本古来の自然発生的な儀礼的秩序といっていい。その朝廷の秩序にことごとく信長は異をたてた。

 若いころの信長の、興味深い言葉が、『明良洪範(めいりょうこうはん)続篇』という書物に残されている。

「王という者は如何様なる者にて候や。厨子などに入れて置く者か、または人にて候や」

 信長の王すなわち天皇観が偲ばれる。ましてや天正10年ともなれば、いまやおのれが独裁する日本国という主権国家がここにあり、そのなかの儀礼的最高位としての天皇なんかはいらない、という極限のところにまで信長の思想は達していた、とみてもいい。いまでいう「天皇機関説」もいらない、となれば、信長自身が国の家父長としての権限も行使する、つまり天皇になるほかはないのである。

 信長は、朝廷とか公家社会といった中世的常識とは無縁であった。それゆえに、その政治的行動が近世への重い幕を開こうとしたが、逆に、その無縁さゆえに結果として自分の命を滅ぼしてしまったことになる。

『信長公記(しんちょうこうき)』に描かれた信長の最期の言葉はこうである。

「明智が者と見え申し候と、言上候へば、『是非に及ばず』と、上意候」

 ただの一言。これまた簡潔この上ない。「是非に及ばず」と戦いつつ死ぬ。いかにも信長にふさわしかった。

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「うつし絵に口づけしつつ幾たびか」ミッドウェイ作戦出撃直前、山本五十六が愛人へ送った“甘すぎる恋文”とは へ続く

(半藤 一利/文春文庫)

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