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田辺聖子「18歳の日の記録」没後2年、押し入れから出てきた一冊のノート

 若き日は過ぎ去り易い――。けれども多彩であり、豊なる収獲がある。それ故に、“若き日”は尊い。「空襲」「敗戦」「父の死」「夢」を鮮烈に綴った作家・田辺聖子さんの76年前の日記発見。姪の田辺美奈さんが、今回の日記発見に至る経緯を明かします。(「文藝春秋」2021年7月号より)

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田辺聖子さん ©文藝春秋

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白紙に戻した記念館事業

 伯母は「絶えず書く人だった」と思う。

 生涯、700冊以上の著書を残した作家としての仕事ぶりだけでも、そう言えるかもしれないけれども、私がそのように感じたのは、兵庫県伊丹市梅ノ木にある伯母の自宅を整理した際に出てきた原稿以外の書き物の量だった。内容は多岐に亘る。日記、取材ノート、小説の構想、タイトル帳、旅日記、アフォリズム集、献立帳……。気に入ったシールで表紙を飾ったようなものから、和紙で表紙をつけ、題簽(だいせん)まで貼った凝ったものもあった。開いてみると、鉛筆の走り書き、万年筆の几帳面な文字、カラフルなペン書きなど、筆記用具や書き方はそれぞれまちまちで、何かを残すためというよりも、ただ「書く」ことが目的だと感じられるようなありようだった。伯母の「書き物」の山を前に、一緒に片付けをしていた従姉と、思わず同時に声が漏れた。

「おばちゃん、ようこれだけ書いたねえ」

 今回、思いがけず見つかった「18歳の日記」は、伯母が数えの18歳になったばかりの昭和20年4月から22年3月までの日々の記録である。当時、樟蔭女子専門学校(現・大阪樟蔭女子大学)の国文科2年生。向学心に燃えて入学したが、ほどなく学徒動員で、伊丹の飛行機部品工場で働くことになった。その寮生活の様子から日記は始まっている。

 日記の発見の経緯を簡単に記しておきたい。

 伯母の家の片付けを始めたのは、没後(2019年6月6日没)、伊丹市から伯母の自宅を記念館として期間限定で公開したいという提案をいただいたのがきっかけだった。リビングと応接間、そして仕事場を公開すると決めて、それ以外の部屋の片付けを始めたものの、新型コロナウイルスの蔓延で公開事業が延期になり、そのうち、豪雨をきっかけに雨漏りがするようになった。近所に住む従姉がそのたびに応急処置をしてくれたが、そのうちに壁の漆喰がはがれ落ちたり、地下の書庫にカビが発生したりといった不具合も生じてくる。伯母が細部にまでこだわって建てた夢の家も、40年以上の時を経て、主の死と共に終焉に向かっているようだった。

 いたちごっこのように続く細かい家の修繕に疲れ果て、とうとう、私たちは、これ以上家を維持していくことは無理だと判断して、記念館事業も白紙に戻してもらった。

 それとほぼ期を同じくして、NHKから「田辺聖子と戦争」という内容の番組制作のお話があった。従姉と私は、部屋を片付けながら、なにか協力できるような資料がないかを探したが、すでに何度も書いている伯母自身の戦争体験を基にした作品を超えるようなものは何も出てこなかった。

「8月15日」には墨文字が躍る

 何度目かの打ち合わせのときだった。私は担当ディレクターの方に、

「伯母と戦争というテーマで番組を作っていただくならば、伯母の作品が一番の手がかりになるかと思います。これ以上、何か新しい資料が出てくるようなことはなさそうだし」

 と、お話しした。ディレクターが「方向性がなかなか決まらない」とちょっと困ったような顔をされたそのとき、

「こんなものが出てきた」

 と、奥の部屋を片付けていた従姉が部屋に入ってきた。手には伯母の名前入りの見慣れたグレーの紙封筒。表に伯母の字で「昭和20年4月~12月 学徒動員 空襲罹災 父病臥 母、買出しの日々」と書かれてある。奥の和室の押し入れからひょっこり、これ1冊だけが出てきたという。まるで、伯母がちょっと手を貸してくれたような不思議な瞬間だった。

 自筆のイラストと、短い詩の書かれた表紙。ぽろぽろとくずれおちそうなページを繰って、私たちがまっさきに探したのは、敗戦の日の記録だ。

 8月15日、万年筆で丁寧に書かれた他のページとは異なり黒々とした墨文字が躍っている。「何事ぞ!」のひとこと。家を焼かれても、この戦争を聖戦と信じ、さまざまな苦難に耐えてきた「純粋培養の軍国少女」の、抑え切れない思いがほとばしるように流れこんでくる。楽しいはずの青春を戦争に奪われ、死んでいった若い人々への哀惜はことに深く感じられた。何十年たっても変わることなく幾度も小説やエッセイに書いた伯母の戦争への想いだ。

「〈空襲以前〉〈空襲以後〉で人生がかっきり分れるような大きな体験だった」という昭和20年6月1日の空襲。この日、学校で知らせを聞いた伯母は、大阪の鶴橋駅から福島区の自宅まで約8キロを歩いて帰った。道一本で、生死が分かれるような状況の中を、不安を宥めながら歩き続ける様子が細かく書き留められている。悪い足を引きずりながら、歩き通しに歩いてようやく家の近くまで辿り着いたとき、近所の人から家が焼けたことを知らされた衝撃。

 体験したことの興奮がさめやらないうちに書きつけられた文章はあまりになまなましく、読んでいると胸がつまる。

 そんな生活の中でも、友人たちとの微笑ましいやりとりや、日常のささやかな喜びもたくさん描かれていることが救いだ。生来、生真面目で、勤勉であった伯母も、この時代なりの青春を謳歌していたようである。

「大丈夫、ちゃんと作家になったよ」

 日記の中で、とりわけ印象的だったのは、繰り返し綴られている将来への希望と不安だ。

 作家になりたい、しかし本当になれるだろうか。上の学校に行けない状況で、どうやってその夢に向かって勉強すればよいのだろう……。10代ならではの、心ばかりが急(せ)くような悩みもそのまま日記には記されていて、私は18歳の伯母の肩を抱いて、「大丈夫、おばちゃん。ちゃんと作家になったよ」と、励ましに行きたいような気持ちになった。

 この日記を多くの方に読んでいただくことで、作家としての伯母を理解していただくと同時に、戦争の記憶が具体性を失い、忘却のかなたへと失われつつある流れをわずかでも堰きとめることができればと祈っている。

 私たち遺族のこうした意を汲んで、快く掲載をお引き受けくださった文藝春秋に、心より感謝申し上げます。

 田辺美奈さんの手記「没後2年 押し入れから出てきた1冊のノート」は、「文藝春秋」7月号と「文藝春秋digital」に掲載されています。

(田辺 美奈/文藝春秋 2021年7月号)

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