やす子も、戦隊俳優も “児童養護施設”出身者が語る子どもたちの現状と今後の課題
お笑い芸人のやす子が、出身者だと語って注目を浴びるようになった児童養護施設。さまざまな事情を抱えた子どもたちの安全を守る場所として存在しているが、そこにたどり着くまで、そして施設を出た後の困難についてはあまり知られていない。若者支援をしている活動家のブローハン聡さんに、現状と今後の課題を伺った。
児童養護施設で暮らす児童は約2万3000人
最近は芸人のやす子やスーパー戦隊俳優の古原靖久をはじめ、児童養護施設で育った体験をメディアで語る人たちが登場してきた。
今年の『24時間テレビ』(日本テレビ系)では、やす子が全国の児童養護施設への募金マラソンに挑戦し、注目を集めたのも記憶に新しい。子どもへの虐待のニュースが後を絶たない中、児童養護施設が果たす役割は大きくなっている。
ただし、児童養護施設を取り巻く環境は課題が多い。現在、児童養護施設で暮らす児童は約2万3000人だが、社会的養護が必要な児童はその3~4倍はいるといわれている。
社会的養護とは、保護者のいない児童や保護者に監護させることが適当でない児童を、公的責任で社会的に養育し、保護するとともに、養育に大きな困難を抱える家庭へ支援を行うことだ。
子どもへの虐待の相談は年々増えているが、対応するケースワーカーが足りていない状況で、安全ではない環境で暮らさざるを得ない子どももいる。さらに児童養護施設を出た後で、路頭に迷う若者も少なくない。
「児童養護施設では衣食住が保証されますが、18歳または20歳になれば出なくてはなりません。その際、これまでの児童手当がもらえますが、引っ越し費用で消えてしまうくらいの金額です。仕事がなくなれば困窮し、帰る場所もないので、心が折れてしまう人もいます」
こう話すのは、一般社団法人コンパスナビの代表理事・ブローハン聡さん(32)だ。自身も児童養護施設出身で、施設を出た若者のサポート体制づくりに尽力し、リーダー的存在として注目を集めている。
また、ブローハンさん同様に児童養護施設出身者の山本昌子さん、西坂來人さんとともに福祉関連の情報を発信するYouTube番組『THREEFLAGS 希望の狼煙』の運営もしている。
「児童養護施設出身者に限らず、親を頼れない若者や元受刑者の自立を支えるための支援を行っています。就労支援、運転免許取得支援、住居支援、巣立ち支援、就労体験といった活動を通じ、若者たちのリスタートを支えています」(ブローハンさん、以下同)
朗らかな印象のブローハンさんだが、養父から壮絶な虐待を受け、11歳から19歳まで児童養護施設で暮らしてきた。
「母はフィリピンパブで働いていて、実父はそこのお客でした。実父には家庭があるため、母とは結婚できず、僕が生まれましたが、無国籍、無戸籍でした。4歳のときに母が別の男性と結婚しましたが、やはり籍には入れてもらえず、この養父からひどい虐待を受けてきたのです。殴られたり、水風呂に沈められたり、包丁で刺されそうになったこともあります」
ブローハンさんの母は養父から息子を引き離すため、知り合いの家に預けて、仕事に行くことも多かった。ブローハンさんはそこでも暴力やネグレクト、性的虐待に遭ってしまう。
「それでも母には心配をかけたくないので、言いませんでした。ただ養父からお尻をライターであぶられた際、やけどが痛くて変な座り方をしていたのを先生が気づいて、児童相談所に連絡がいきました。そこから虐待が判明し、児童養護施設での暮らしが始まったのです」
住むところがなくなりホームレスも経験
施設に入って驚いたのは1日3食ごはんが食べられることだった。
「母は13人きょうだいでフィリピンに仕送りをしており、お金がなくて、僕は1日1食食べられたらいいほうでした。施設では誕生日のときはリクエストを聞いてくれ、フィリピン料理を作ってもらったこともあります。仲間ができた感覚があり、安心も得ました。でも、最初は寝ているときに足音が聞こえると、養父からの暴力を思い出してビクビクしていました。安心して眠れるようになったのは3~4年たったころです」
一方、最愛の母は14歳のときに病気で亡くなり、身寄りがなくなってしまった。
「母は親としての能力は低かったのでしょうが、愛情表現は欠かさない人でした。毎日、『I LOVE YOU、I MISS YOU』と僕に伝えてくれていたので、母が喜ぶいい息子でいたいという気持ちが大きかったのです。これまで道から外れずに生きてこられたのも、母からもらった愛情が大きかったのだと思います」
児童養護施設で暮らす子どもたちは施設から学校へ通う。ブローハンさんも施設から学校へ通い、高校卒業後は寮のある病院に事務職として就職したが、看護学校に通うように説得されたものの、看護助手として過酷な働き方を強いられて、1年で辞めてしまった。
「住むところがなくなりホームレスも経験しました。その後、日本に在住していた母の親族とつながることができ、家に住まわせてもらえることに。その間はスポーツ店や携帯電話ショップなどで働いて、生活費を渡していました。タレントのオーディションを受けたり、バックパッカーとして世界を旅したり、20代前半は自分がどうしたいのか模索が続きました」
転機が訪れたのは、施設で暮らした若者が集まるプロジェクトに参加した26歳のときだ。明るく、コミュニケーション力の高いブローハンさんは、プロジェクトのスタッフとして一緒に活動しないかと誘われる。
「それが今のコンパスナビで、事務局長を経て、今年から代表理事になりました。現在はこども家庭庁の委員として政策提言をしたり、講演会でお話しすることも多いです。施設から逃げ出した子どもの相談に個人的に乗ることもあります」
社会的養護下にある児童が生活する場所は、児童養護施設以外に、15歳以上の義務教育を終了した児童が生活する自立援助ホーム、一般家庭での養育を委託する里親、養育者の住居で家庭養護を行うファミリーホームなどの形態がある。
なかでも自立援助ホームは個人でも民間でも設立できるため、施設長が独自のルールで運営してトラブルになることもあるという。
「施設から逃げ出すと、行くところがなく、虐待が行われていた家庭に戻らざるを得なくなる子どももいます。そういった子どもたちが安全に暮らせるようサポートしていますが、大切なのは本人が自分で決めることです。解決型思考より伴走支援で、本人がどうなりたいかを一緒に考えていくことを大切にしています」
ブローハンさんたちの活動に勇気づけられる若者は多いが、将来を絶望し、自ら命を絶ってしまうケースもある。
「18歳まで最悪の環境で暮らして、やっと家を出られて、ここからが本当のスタートだと伝えても、自信が持てなかったり、トラウマを抱えていたりして、なかなか前に進めない人もいます。昨年は支援していた人が2人亡くなり、自分の活動の意義が揺れて、この仕事を辞めることも考えました。
ここから一歩出たら全然変わる世の中がある、光があるということを伝えたいのですが、苦しい渦中にいる子どもたちにはなかなか言葉が届きません。
でも僕自身が光を信じていないと伝わらないと思うので、光が眩しくても伝えていくことに決めました。今、過酷な環境下にいても、決して明日をあきらめないでほしい、助けてくれる大人たちもたくさんいることをこれからも示していきます」
悩みながらも活動を続けるブローハンさんを子どものころから知るのは、児童養護施設「聖友学園」の施設長・若松弘樹さんだ。
「彼は施設にいるときから明るく、頼りがいがあるお兄さん的な存在でした。今では広い人脈を持ち、施設と企業を取り持つパイプ的な役割も果たしてくれ、一緒に飲みに行くこともあります」
自立というのは一人で立つことではない
若松さんはブローハンさんの活動に共感し、生きづらさを抱える施設出身者にエールを送る。
「自立というのは一人で立つことではありません。困ったときは適切に誰かに相談できるのが大人です。つらくて悩んでいる人には、聡君のところをはじめ、よりどころがたくさんあることが大事だと思います」(若松さん)
ブローハンさんたちと連携している認定NPO法人ブリッジフォースマイルは、施設退所を控えた18歳の高校生を対象に、一人暮らしに必要な知識とスキルを学ぶ場を提供している団体だ。代表の林恵子さんとブローハンさんは同じ方向を向く仲間として、意見交換することも多い。
「これまでは担当の先生によって奨学金や給付金の探し方にも差があり、子どもたちの間で情報格差がありました。今はブリッジフォースマイルの支援が受けられたり、児童養護施設に自立支援コーディネーターが配属されるようになり、情報に偏りがないよう整備されました」
ブローハンさんは2021年に、『虐待の子だった僕 実父養父と母の消えない記憶』(さくら舎)を上梓し、自分の人生を変えた大きな経験をつづっている。
「14歳のとき内戦が続くスーダンで撮影された写真を見てハッとしました。やせ細った少女を狙うようなハゲワシの写真で、この少女と比べて自分にはまだ生きるチャンスがあると強く思ったのです」
今年公開された映画『花束』には、俳優としても出演している。イランの孤児院で育ったサヘル・ローズさんの初監督作品で、児童養護施設で育った若者たちが記憶を紡ぐ内容だ。
「ドキュメンタリーとフィクションが交ざり合い、自分の体験を表現する作品で、初めて俳優を経験しました。多くの人に子どもへの虐待や児童養護施設の課題を知ってもらうためには、福祉の枠を超えた発信が大事だと思っています。支援を限定した枠組みに収めず、人ごとではなく自分ごととして考えてもらうためにも、今回は貴重な機会だと思って出演させていただきました」
コンパスナビのような団体が若者への支援を続けるためには資金も必要だ。
「県から補助金をもらったり、寄付金を集めたりしても成り立たなくなる支援団体が多いのが現状です。ボランティアではないので、安定した事業収益を上げながら、生きづらさを抱える人を包括的にサポートする体制をつくっていくことを考えています」
ブローハン聡さん●ぶろーはん・さとし 1992年、東京にてフィリピン人の母、日本人の父の間に婚外子として生まれる。4歳から11歳まで、母の結婚相手(養父)から虐待を受ける。11歳のときに保護されて児童養護施設へ。14歳のときに母を乳がんで亡くす。施設を出た後は病院の看護助手、携帯ショップなどで働く一方、フリーのモデル・タレントとして活動。現在は埼玉県の一般社団法人コンパスナビの代表理事として、社会的養護出身の若者の居場所・よりどころをつくる活動に携わる。
取材・文/紀和 静 取材協力/NPO法人ひだまり
11/06 07:00
週刊女性PRIME