自民党総裁はどのように決まるのか? 安倍再出馬の政治ドラマ

 病に倒れた第1次政権から5年、安倍晋三は再び自民党総裁選に立つことを決意した。それは7年8カ月に及ぶ政治ドラマの幕開きだった――。安倍本人をはじめ、菅義偉、麻生太郎、岸田文雄などの閣僚、官邸スタッフなどに徹底取材、政治ドラマの奥に迫る第一級のノンフィクションから、総裁選、総選挙の内幕を描いた第一章「再登場」から一部を抜粋する。

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〈安倍晋三をもう一度、総理にする〉

 2012年8月のお盆明けのその日。東京はうだるほど暑かった。

 昼下がり、菅義偉(衆議院議員、神奈川県)が東京都・渋谷区富ヶ谷の安倍晋三の自宅を一人で訪れた。菅は谷垣禎一自由民主党総裁(衆議院議員、京都府)の下、党組織運動本部長の役職にある。

 富ヶ谷の自宅は鉄筋3階建て。堅牢だが瀟洒なたたずまいである。1階が安倍の兄の安倍寛信夫婦、3階が安倍の母、洋子、そして2階が安倍と妻の昭恵が住んでいる。

 地階に車で入り、2階までエレベーターで行った。ドアが開くと、半そで姿の安倍が笑顔で出迎えた。

 菅は一つの覚悟を心に秘めていた。

〈安倍晋三をもう一度、総理にする〉〈そのために、安倍を9月の自民党総裁選に出馬させる〉

 菅義偉は、1948年、秋田県の農家の長男として生まれた。父親の菅和三郎は戦前、南満州鉄道(満鉄)職員として働いた。大戦末期の満州国の臨時首都、通化で敗戦を迎え、引き揚げた。いちご農家として成功し、雄勝町議会議長にも選ばれた。菅は15歳の時、1964年の東京オリンピックの時の聖火ランナーの伴走者に選ばれ、県内を走った。そのことをいつまでも誇りに思った。農業を継ぐことに抵抗し、地元の高校を卒業すると「家出同然」で、上京した。有楽町・日劇近くのカレー店でカレーの盛り付けをしたり、NHKでガードマンをしたり、新聞社の編集部門で雑用係をしたりしながら二年遅れで法政大学に入った。東京の私立大学の中で法政大学の学費が一番安かった。

 大学卒業後、法政出身の自民党の小此木彦三郎衆議院議員(神奈川県)の秘書になった。1986年、横浜市議会議員。1996年の衆議院選挙に自民党公認で出馬、新進党公認・公明党推薦の上田晃弘を破って初当選した。選挙中、公明党の支持母体の創価学会をカルト集団呼ばわりするなど、闘志をむき出しにした。1998年の自民党総裁選では所属派閥の小渕派(後、平成研究会)を退会し、同会会長の小渕恵三ではなく師事していた梶山静六の擁立に走り回った。たたき上げの党人派である。

 安倍との最初の出会いは、衆院当選2回の2000年のことである。北朝鮮による拉致問題がきっかけだった。自民党総務会で北朝鮮へのコメの支援が議題になった。菅は大反対した。直ちに安倍から電話がかかってきて、議員会館で会った。北朝鮮による対日工作が明らかになる中で、二人は万景峰号の入港を禁止する法律の制定に取り組んだ。北朝鮮から新潟港に頻繁に入港していた万景峰号は、物資や資金の輸送の他、諜報・工作員などの人的往来にも利用されていた。

 同志的関係を結ぶようになったのは、2006年9月の自民党総裁選からである。安倍は出馬にあたって菅に「再チャレンジ支援議員連盟」をともに立ち上げてほしいと頼み、議員連盟の人選も菅に任せた。菅は党内の派閥を超えて、安倍を支持する中堅・若手議員に働きかけた。安倍が所属する清和会のドン、森喜朗は「安倍君、順番というものがある」と安倍を制し、福田康夫元官房長官を推していた。第一次安倍政権で菅は総務相に就任した。

 しかし、安倍第一次政権は翌2007年、あっけなく倒壊した。

 あれから5年が経つ。無様な終わり方をしたこともあり、安倍に対する風当たりは依然、きつかった。「安倍はもう終わった」との受け止め方が一般的だった。

「私は勝てると思います」

〈風向きが変わってきた〉

 と菅が感じ始めたのは2012年の春ごろからである

 菅は、総裁選に出るよう再三、安倍を説いた。

「円高・デフレ脱却による日本経済の再生、東日本大震災からの復興、尖閣諸島や北朝鮮の問題による危機管理の3つをやるのは安倍さんしかいない。絶対に出るべきです」

 しかし、安倍は「そうだよなあ」と気の抜けた返事を繰り返すだけだった。

 2012年8月15日。安倍はその日の午前、萩生田光一を伴って靖国神社に参拝した。

 萩生田は安倍が目をかけてきた政治家だが、2009年の衆院選挙で落選し、この時は浪人中だった。

 この日、尖閣諸島の魚釣島に香港の「保釣(ほちょう)行動委員会」の活動家ら7人が上陸したとテレビが報じた。沖縄県警と海上保安庁が、上陸した7人を含む14人を入管難民法違反容疑で現行犯逮捕した(2日後、全員を香港へ強制送還した)。

 二人は、参拝した後、日本橋の蕎麦屋「砂場」で昼食を共にした。

 萩生田は安倍に「次じゃなくていいんじゃないですか」と言った。

 9月の総裁選への出馬は思いとどまるべきだ、との意味である。

 安倍の側近や盟友のほとんどが「まだ早い」「下手に出て、負けたら、もう終わりだ」と再登板には慎重だった。

 しかし、菅は違った。機が熟してきたと感じていた。

 その日の夜、菅は安倍を銀座の焼き鳥屋に誘った。何度も何度も安倍に立つべきだと説いた。3時間が過ぎた。最後に安倍は首を縦に振った。

「振り返って、もっとも誇らしく思う」瞬間だった、と菅は後に述べている。

 その直前に共同通信の世論調査(実施:8月11~12日)の結果が発表された。

「次の首相に誰がふさわしいか」の質問では、石破茂9・8%、石原伸晃9・6%に続いて、安倍が6・7%で三位に入った。

 石破茂(衆議院議員、鳥取県)、石原伸晃(自民党幹事長;衆議院議員、東京都)と違い、安倍はまだ出馬への意欲さえ表明していない。にもかかわらず、三位に食い込んでいる。自民党総裁の谷垣禎一よりも上位にある。

 菅は、この世論調査の結果を安倍に電話で伝えた。安倍はそれを聞き、元気づけられたようだった。

 もっともその後、知り合いのジャーナリストから「安倍が弱気になっている」との情報が菅に入った。

 テレビのニュース番組の「街の声」の中に安倍再登板に厳しい声が紹介され、安倍がそれを結構、気にしている、とか、木村太郎(衆院議員、青森県)ら清和会の若手中堅数名が安倍に「今回は、町村さんに譲り、出馬を見送るべきだ」と血判状を出したことで気落ちしている、とか。

 町村さん――同じ清和会に属する町村信孝元外相(衆議院議員、北海道)のことである。

 もう一度安倍に会い、ねじを巻きなおす以外ない。菅はいてもたっても居られず、この夏の昼下がり、安倍邸を訪問したのだった。

 居間に通された。

 安倍は妻の昭恵が外出していて、お構いもできずにすまないと言い、お茶を出した。

 時候の挨拶もそこそこに、菅は本題に入った。

「私は安倍さんでやる気だし、私は勝てると思います」

 その頃、自民党総裁選への候補者としては谷垣禎一、石原伸晃、石破茂、町村信孝、林芳正(参議院議員、山口県)などの名前が取り沙汰されていた。菅は、石破、石原、安倍の3人の対決となったシナリオを描き、票読みをしてみせた。

「最初の投票ではけりがつかない。割れます。ただ、決勝戦に残れば、結構、こちらの人数が多く出る。十分に勝てる可能性があると思います」

 菅はさらに個々の議員の投票予測をしてみせた。

 菅は議員の名前をコピーした紙を持参してきたが、安倍は真新しい『国会便覧』を隣の部屋から取り出してきた。

「彼は、石原支持ですが、決戦投票になればこちらに来ます」

「この議員は実は、初回当選から安倍さんのファンです」

 そうやって一人一人、〇と△をつけて行った。

 結論として、菅は次のシナリオを描いて見せた。

・1回目の投票は地方票に強い石破が過半数を取る。

・安倍が勝つためには1回目の投票で2位に入る必要があるが、最悪でも40票以上の差をつけて石原には勝てる。

・3位の石原票は、決選投票ではほとんど石破には行かない。2位・3位連合の形になれば必ず石破に勝てる。

 安倍は、ずいぶん経ってから、「あの時、出ろと言ったのは菅ちゃんと昭恵の2人だけだった」と菅に言ったことがある。

 菅は「出ろ」と言っただけではない。「勝てる」と言ったのだった。

 濃密な1時間だった。

〈もう大丈夫だ。安倍さんは出る〉

 帰りのエレベーターの中で菅は深呼吸をした。


(船橋洋一『宿命の子 上』第一章「再登場」より一部抜粋)

民主党・野田総理との党首討論。側近たちが記した「首相の心得」〉へ続く

(船橋 洋一/文藝出版局)

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