地雷犠牲者への“整体”で向き合った人間の尊厳…18回の国際救護活動に従事した看護師・髙原美貴さんが明かす「極限状態の救護」

2年に1度、赤十字国際委員会は「敵味方の区別なく救護する」という精神のもと顕著な功績を残した看護師を選出し、ある記章を授けて称える。昨年、そのフローレンス・ナイチンゲールの名を冠した栄誉に輝いた髙原さんは、世界の紛争地や大災害の被災地での救護活動に従事する“伝説の看護師”だ。“目の前の人を、できることを尽くして救う”という彼女の強さは、どのように形作られたのか――。

「海外派遣時の荷物は、徹底的に厳選します。まず、持っていきたいものを並べてから、『あったらいいなは、なくても死なない』で減らしていきます。最終的に、リュックサックとバッグの1つずつ程度にまとめています」

姫路赤十字病院看護副部長・髙原美貴さん(58)は、まるで遠足に行くかのように話している。

世界各地の赤十字社・赤新月社が行う国際救護活動で、これまで髙原さんが派遣されたのは12の国や地域へ18回に及ぶ。ケニア、スーダン、シエラレオネ、アフガニスタン、インドネシア、バングラデシュ、パキスタン、ハイチ、ヨルダン、パレスチナ・ガザ地区、そしてシリア……。いずれも紛争地や大災害直後の危険な地域ばかりだった。そこへリュックサックとバッグで出かけていく。

「大きなスーツケースのような荷物を持ち歩きたくないんです。私たちが派遣されるのは、国際空港がある都市ではなく、そこからさらに飛行機に乗らなくてはならない奥地。ロストバゲージなんかで、無駄にエネルギーを使いたくないし、何より着いたばかりの国を、荷物トラブルなんかで嫌いになりたくありませんから」

淡々と話す髙原さんは、小柄で穏やか。命懸けの任務を何度もこなしてきた人には見えない。

昨年7月、髙原さんは2年に1度、特に優れた功績のあった看護師に贈られるフローレンス・ナイチンゲール記章を受章した。

職業看護師の先駆けとしてクリミア戦争に従軍し、多くの戦傷者の救護にあたり、“クリミアの天使”と呼ばれたフローレンス・ナイチンゲール。その名を冠した世界的な記章は、看護分野で長年の功績が認められたベテランが受章することが多く、髙原さんのように現役の看護師が受章するのは異例のことだった。

昨年7月27日の授与式には、雅子さまが臨席されている。明治時代から皇室は日本赤十字社(以下、日赤)の活動を支援し、香淳皇后以来の歴代皇后が名誉総裁を務めてきた。令和では、雅子さまが名誉総裁に就任されている。

髙原さんは、シリアから一時帰国して授与式に臨み、約70人の看護学生が手にしたオレンジ色のろうそくの炎が揺れる式典で、純白のスーツをお召しになった雅子さまから光り輝く記章を手渡された。式典後の懇親の席で、髙原さんは雅子さまとシリアの現状などについて懇談した。そして髙原さんは、晴れやかな式典の余韻に浸ることもなく、4日後に再びリュック一つでシリアへと戻った。

今年5月、約1年間の活動を終えて帰国。しばらくは姫路赤十字病院で看護副部長の業務にあたるというが、要請があればすぐにでも、海外へと飛び立つ覚悟がその眼差しから感じられた。その強さ、使命感はいったいどこから来るのだろうか。

■憧れ続けた看護師になるも、突如退職。カナダで気づいた目指したころの気持ち

小学生のころから、髙原さんは看護師に憧れていた。

「兄が交通事故で入院したとき、優しい看護師さんがいたことは覚えていますが……」

そのときの印象が残っていたのだろうか。作文に看護師になりたいと書いたところ、授業参観で発表することになった。

「姫路の山間部で育った私は、窓から開けた景色が広々と見渡せる都会の病院で看護師として働きたいと書いたのですが、先生が『人を助けたいから』と勝手に書き換えていたんです」

作文を読む娘の不機嫌な顔を、母親が覚えていたという。

「私自身、『私、こんなん書いてへん。なんでみんなの前で読まんとあかんねん』と思っていました。そんな具合で、看護師になるのに美しい動機があったわけではないんです。お年玉でナイチンゲールの伝記を買ってもらったのも、お目当てのドリトル先生の本がなく、仕方なく手にとった本だったのが理由で(笑)」

漠然としていたとはいえ、髙原さんが抱いた憧れは、高校卒業後も変わることがなかった。姫路赤十字看護専門学校から、姫路赤十字病院に就職し、まさに看護師一直線の10代を過ごしていた。ところが、3年勤めたころに突如退職。髙原さんはワーキングホリデーでカナダへ渡ったのだ。

「看護師3年目は、新生児センター勤務でした。生後すぐに治療を必要としたり、亡くなる赤ちゃんもいました。

先輩からは『入れ込みすぎ。患者さんともう少し距離をとらないと、しんどくなるよ』とアドバイスされていました。カナダに渡ったのは、無力感やジレンマを感じたことがきっかけだったかもしれません。あと、ずっと故郷の狭い世界を生きてきて、単純に“外の世界へ出て冒険したい”という気持ちもあったように思います」

カナダではホテルのレストランやツアー会社などで働いた。3年がたったころ、ツアー会社のドライバーにこう言われた。

「美貴はやっぱり看護師だよ。いつもお客さんをよく見ているし、彼らのニーズを満たそうと頑張っている。それってナーシングじゃないの?」

いつも冗談ばかり言っていたドライバーの一言に、もやもやとした迷いが嘘のように晴れていた。

「そうだ、私は看護師だった!」

看護師を目指したころの気持ちが戻ってきた。帰国後、姫路赤十字病院に復帰すると、3年間のカナダでの経験を評価され、国際救護活動に抜擢されたのだった。

■巨大地震に見舞われ心にトラウマも─極限状態でも“最善を尽くす”救護とは

1999年に初めて国際救護活動に従事したとき、髙原さんは33歳。スーダン紛争の避難民救護のため、国境に近いケニアのロキチョキオという町に入った。

救護活動の主体となるICRC(赤十字国際委員会)が設営した病院で待機していると、戦闘中に銃弾で負傷したスーダン人の少年が運ばれてきた。まだ8歳ほどの幼さだった。治療を終えた少年に、

「村に戻っても、もう戦闘に加わることはやめようね」

と語りかけた。だが少年は、澄んだ目でこう言った。

「僕や家族が攻撃を受けたとき、誰が僕たちを守ってくれるの?」

髙原さんは、このとき返事に詰まったという。

「平和な日本で育てば、“言葉で会話をすべき”と考えるのは自然なことです。しかし、子どものときから“銃で会話をしてきた人たち”に、理想や奇麗事は通じません。私がなすべきことは、シンプルに目の前にいる傷ついた人のニーズを理解し、最善を尽くすことだと気づきました」

その少年やほかの戦傷者も、武器を持たず、患者として来るぶんには、国籍や民族は関係ない。

「生まれてからずっと戦ってきた人たちを100パーセント理解することは無理だと思っていますが、なるべくその立場に心を寄せて、支援したいと常に思っています」

だが救護側の思いやる気持ちは、一方通行になりがちだった。スーダンでは、ナタを持った元患者に命を狙われたこともある。

「回復した男性に、退院を促したことが原因でした。入院中は、1日2回の食事と屋根の下で寝られる環境が保障されますが、退院するとそれを失うことになりますから」

家に帰るよう告げると、彼は子どものように頬をふくらませ、不満そうに帰っていった。

その後、同僚とおしゃべりしていると、みんなが口々に、

「逃げろ!」

と、突然叫び始めた。家に帰った男性が、ナタを片手に持って襲ってきたのだ。

「頑丈な鉄の扉があるセーフルームに逃げ込んだので、何とか殺されずにすみましたが」

そんな目に遭っても、髙原さんはこの男性を理解しようとする。

「もしかしたら、“ナタで襲われなくてもすむ言い方があったのかなあ”と、後で思ったり。

でも、正解はない気がします。常に完璧な仕事をすることはむずかしい。そのつど現場で、よく話し合って落としどころを探っていくしかないのです」

髙原さんのような国際救護活動に従事する看護師の派遣先は、紛争により多数の戦傷者がいる地域、巨大地震などの自然災害の被災地、パンデミックが起きた地域など、極限状態にある場合が多い。こうした地域への派遣時には、すぐに避難できるように、ランバッグと呼ばれる非常用持ち出し袋を枕元に置く生活を送る。

髙原さんのランバッグには、1リットルの水、エナジーバー数本、十徳ナイフやライト、スマホのバッテリー、無線機が入っていた。

「シエラレオネへの派遣時、政府、反政府勢力、自警組織の勢力図が目まぐるしく変化していました。情勢しだいで診療所があるエリアの危険度が上がると、即時避難です。私もランバッグだけ持って、2回ほどヘリで避難しました」

現在も激しい戦火に見舞われているパレスチナ・ガザ地区。髙原さんが入ったときは戦闘が始まる前だったが、イスラエルの防空システム・アイアンドームのミサイルが、花火のように迎撃する光景をよく見ていたという。

「すごく危険と思われるかもしれませんが、そもそも銃弾や爆弾が飛び交うほどの危険な地域に派遣されることはありません。私たちに被害が出ると、救護活動がストップし、救えたはずの人たちを助けられなくなってしまいますから。セキュリティの専門家が同行するなど常に万全を期しているのです」

だが自然災害は、セキュリティの専門家であっても対応することがむずかしい。2005年、インドネシア・スマトラ島地震の復興支援調査で、シムルー島を訪れたとき、マグニチュード8.6の巨大地震に見舞われた。

「宿舎で水浴びをしているときでした。立っていられない大きな揺れにへたりこむと、大きな水がめからジャブジャブとこぼれる水を頭からかぶって呼吸もできず、溺れそうになりながら、揺れが収まるまで何もできませんでした」

なんとか命拾いしたが、髙原さんはトラウマを負ってしまった。任期を終え、帰国して新幹線に乗っていたとき、突然パニックに襲われたのだ。

「新幹線同士がすれ違い、ガタガタッと車体が強く揺れたことをきっかけに、急に、汗か涙かわからないもので全身がグショグショになってしまって。その場にとどまれず、車内を行ったり来たりすることしかできなくなったんです」

以後しばらくの間、揺れる乗り物には乗れなくなったという。しかしそれほど心に傷を負った後も、髙原さんは再び大地震後のジャワ島やハイチでの救護活動に向かっているのだ。怖くはないのか。どこからそんな勇気が湧いてくるのか。そう聞くたびに、髙原さんは表情を緩めてこう言うばかりだ。

「困っている人がいれば、そのとき私にできることをやる。ただ、それだけなんですよ」

■アフガンで地雷の犠牲者に施した“整体”。とっさに湧いた「日赤の看護師」の使命感

2002年、アフガニスタンのバーミヤンでの出来事だ。少数民族・ハザラ族の老人が、孫娘を連れて診療所にやってきた。少女の右足に巻かれた包帯を外すと、甲から先が壊死していた。タリバンの迫害を逃れて雪山に逃げ、凍傷にかかったという。笑いながら老人が言った。

「歩けるが、このままでは結婚できない。外国人に足を生やしてもらいにきた」

首都カブールにあったICRCの義肢装具センターに送り、装具を作ることもできたが、限られた予算では、入院費や滞在費までは支援できない。同僚のドイツ人麻酔医の女性は、

「できる技術があるのに、なぜ躊躇するの? 費用が足りないなら私が出すわ」

と、熱く主張する。

だが髙原さんは、少女の成長に合わせて今後、何度もカブールまで連れていくのは家族の経済的な負担が大きすぎると考え、

「装具を作るのは結婚する年齢になってからでよいのではないか」

と提案した。その後も何度も議論を重ねて、最善策を探っていったそうだ。

「ICRCの国際要員チームは多国籍で、納得するまで議論を闘わせることが多いのです。それでも、もっとよいやり方があったかもと考えてしまうことはあります」

バーミヤンのイスラム教徒は、亡くなるときに四肢がそろっていないと神に対面できないと信じていたため、体を整復することがとても重要だとこの一件で知った。そんな下地もあってか、このアフガン派遣時に、髙原さんはフローレンス・ナイチンゲール記章を受章する理由の一つになった“整体”を遺体に施している。

「仲よしの親族十数人がミニバン1台にギュウギュウ詰めに乗り、ピクニックに行く途中で、車が対戦車地雷を踏んでしまったことがありました」

搬送されてきた生存者は、ショックで叫び続ける女性1人だけ。ほかの親族は全員即死で、近くの倉庫に運ばれたという。髙原さんが気になって行ってみると、倉庫前にいた物資担当のスタッフが慌てて髙原さんを制止した。

「美貴、これを見てはいけない」

あまりの惨状にショックが大きすぎると思ったのだろう。

「私を何だと思っているの? 私は看護師よ!」

制止を振り切り倉庫に入ると、遺体は悲惨な状態。床に敷かれたシートに、手か足か判別がつかないほど損壊した体の部位が並べられている。家で留守番をしていたおじいさんが引き取りにくると聞き、髙原さんは思った。

「こんなん、渡されへんやん。亡くなった人が肉片のままで、人間の尊厳はどうなるの」

足元のご遺体を見ると、バラバラながらも同じ柄の服があった。犠牲者の男女別の人数に合わせて、バラバラの遺体を組み合わせ、足りない部分はガーゼやシーツ、包帯などで生前の姿に近づけるように整えていった。

「そのとき自分にできることをする」といういつもの髙原さんの行動だったが、帰国後に同僚に話すと「あっ、それって“整体”やんな」と、改めて思い当たった。

髙原さんが看護専門学校に通っていた1985年8月、日本航空123便墜落事故が起きた。死者520人、生存者は4人。事故後に近隣の赤十字病院などから駆けつけた看護師たちの救援活動は、損壊した遺体を生前の姿に近づける、のちに“整体”と呼ばれる活動が中心だった。

「授業で、当時の看護師の手記を読み『あんたらもこうするんやで』と熱心に教わったものの、自分がそんな特別な看護師になるなんて絶対に無理だと思っていました。でも、覚えとったんですね、脳が。特別でもなんでもない。その場にいれば、もうやるしかない。当たり前のことだったのです」

日航機事故以降、“整体”は亡くなった人と遺族の心情に寄り添う活動として行われるようになった。髙原さんは“整体”を通じて現地の文化や宗教を尊重する人道を実現した功績が、フローレンス・ナイチンゲール記章の授与式で称えられたのだった。

淡々と「自分にできること」を一つ一つやり続けて25年。小さくても点と点が積み重なれば、やがて1本の軸になる─―。

日赤の看護師の強い使命感は、いつしか軸となり、芯となって髙原さんの中に受け継がれていた。

■雅子さまの温かな視線に新たな勇気が。次の世代に伝えていく「看護」の意味

海外派遣を両親に伝えるのは、いつも直前になってから。遺書と貯金通帳と判子をお菓子の缶に入れて、母親に預けて出かけていく。

「やはり母が心配して泣いてしまうので……。遺書は最近、更新していませんが、『やりたいことをやって、幸せな奴だったと思ってください』というような内容です。母は『友達とは仲ようしいよ。変な水、飲んだらあかんよ』と、いつも送り出してくれます」

親不孝と思いつつ、常にそこまでの覚悟を持って派遣任務に就いている。髙原さんはそれを「当たり前のこと」と言い切り、「表彰には値しない」と言い続けてきた。そんな髙原さんの背中を押して、フローレンス・ナイチンゲール記章の候補者に推薦したのは、高校時代からの親友・駒田香苗さん(59、姫路赤十字病院看護部長)だった。

「髙原さんに話せば、必ず断ってくるとわかっていたので、いかに内緒にしたまま、事を進めるかが大変でした。ところが、派遣先の活動については髙原さんから詳しく聞き取らなくてはならなくて。声をかけても、2~3回は逃げられていましたね(笑)」

渋々ながらも答えてくれた髙原さんの体験談は、駒田さんにとっても新鮮で衝撃的だった。

「髙原さんは命の危機にさらされた話を面白おかしく話してくれました。あえてそう装った部分もあるのでしょう。紛争地への赴任も、彼女にとっては当たり前のことのようでした。

昔から物欲とか、自分のためということとは無縁な人。専門学校時代から、彼女の部屋にはぬいぐるみが1つあるだけでした。シンプルそのものだったのです」

駒田さんら看護師仲間の願いがかなって受章が決まったとき、髙原さんはシリアにいた。

「LINEのメッセージで受章決定を伝えると、2日後くらいにペコッとお辞儀するクマのスタンプだけが返信されてきました。とても髙原さんらしいと思いました」

昨年の授与式後。懇談の場で雅子さまとお話しになるなかで、こんな話題があったという。

「ICRCの英語を話す方ばかりのテーブルだったため、皇后さまは自然に英語でお話しになっておられました。

『赤十字の看護師は強い』『赤十字の教育が看護師を強くするんです』と話が広がったとき、皇后さまはとても深くうなずかれ、『そうですよね』と。このときだけは日本語でおっしゃったんです」

髙原さんへの言葉だったのだろう。注がれた雅子さまの温かな視線に新たな勇気が湧いてきた。

「名誉総裁である皇后さまからもお言葉をいただきましたから、引き続き強く生きたいと思います」

今後の課題は次の世代を育てること。未来を見据えてこう言った。

「看護の『看』は、しっかり見るということ。日本の看護師はプロ意識が高く、人を見る目、人と人をつなぐ力には自信を持っていいと思います。若い人たちには、日本とまったく違う世界があることを知って、世界の多様性を認められる看護師になってほしいと思っています」

(取材:川嵜兼暁/文:川上典子)

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