【元工藤會幹部の獄中手記】「センター試験で9割」「東京外語大入学」の秀才はなぜ凶悪組織の“広報”になったのか

元工藤會幹部の伊藤明雄・受刑者の手記

 北九州に本拠を置く指定暴力団・工藤會。市民を殺傷した4つの事件をめぐって団体トップの裁判が進むなか、この凶悪組織に身を寄せた元組員の手記を入手した。一流大学から工藤會に入ったという元組員の手記には、自身の経歴と事件の内幕、組織が持つ凶暴性の源泉が克明に綴られていた。【全3回の第1回】

【写真】約100人のワイシャツ姿の捜査員、防護盾を持つ10人ほど…巨大な石積みの野村総裁の自宅へ入っていく家宅捜索時。他、地元・北九州市では市民による暴力団追放運動も

〈私は、四代目工藤會の発足から五代目工藤會の頂上作戦まで、工藤會の盛衰を間近で見てきた生き証人の一人である〉

〈部屋住みを卒業してからも、総裁の麻雀、ワイン、絵画、旅行の随行などを担当し、平成26年9月の頂上作戦までずっと、総裁のお側に仕えさせて頂いた〉

 A4用紙に隙間なく埋められた達筆な文字。手記の主は伊藤明雄・受刑者(50)。特定危険指定暴力団・工藤會の元幹部である。

 東京外語大学除籍という異色の経歴を持ち、工藤會で幹部級の「上席専務理事」に上り詰めた伊藤受刑者は、脱税や恐喝などの容疑で計7度の逮捕歴がある。2023年8月に覚せい剤取締法違反で逮捕され、懲役5年の実刑判決を受けて現在は服役中だ。

 逮捕を受けて2023年8月に工藤會に脱会届を提出した伊藤受刑者は、獄中で自らの半生を書いた。暴力団員の社会復帰を支援する関係者経由で入手したその手記には、およそ一般の感覚からすれば理解しがたい内容が含まれていたが、工藤會という組織の凶暴性を知る上で貴重な記録でもあった。

 現在、工藤會は元漁協組合長射殺事件や看護師刺傷事件など4つの事件をめぐり、組織のトップで総裁の野村悟被告(77)とナンバー2で会長の田上不美夫被告(67)の裁判が進む。

「あんた生涯、このこと後悔するよ」

 2021年8月の福岡地裁判決では、死刑判決を言い渡された野村被告が裁判長にそう言い放って法廷を凍らせた。

 3月12日の控訴審で福岡高裁は一審の死刑判決を破棄し、野村被告に無期懲役の判決を言い渡した。一方、田上被告には一審と同じく、二審も無期懲役を言い渡した。

 検察が上告したタイミングで手記を託した伊藤受刑者は、「内側の視点」から組織の実情を残したかったと綴る。

最終学歴は「東京外語大学ロシア東欧語学部除籍」

 手記はまず、1973年に福岡県北九州市に生まれた伊藤受刑者が極道の道に足を踏み入れる経緯から始まる。

〈地元の県立高校を卒業して、浪人後に東京外国語大学に進学した。センター試験5教科総合で9割弱を得点したので、2次対策はしていなかったが、後期日程で合格することができた〉(伊藤氏の手記より・以下〈 〉内同)

 晴れて大学に進学した伊藤受刑者だが、実家には暗い影が差していた。彼が高校時代、母に子宮がんが発覚。転移が進行し、ほどなく世を去った。大学入学後、父が母の治療費の捻出のため借金を重ねていたことを知ったという。不幸はさらに重なり、弟も伊藤受刑者が大学在学中に事故で亡くなった。

 家庭が崩壊して学費も払えなくなった伊藤受刑者は外語大を休学し、失意のなかで地元に帰ったという。

〈私が帰郷すると父は抜け殻のようになっていた。実家の団地には借金取りが頻繁に訪れた。そのうち父が蒸発した。父と再会を果たすのは、何年も先のことだった。私は天涯孤独も同然となった〉

 学費滞納が続き、やがて大学から実家に除籍通知が届いた。

〈最終学歴は「東京外語大学ロシア東欧語学部除籍」となります。私が自ら外大を出身校と喧伝するのはおこがましく、学部名を公表することで工藤會という悪名がたいして人数もいない学部生の誇りに傷つけてしまわないかと心配しています〉

 大学を辞めた後はアルバイトで生計を立て、職を転々としたのち、闇カジノバーの店員に。そこで工藤會の組員と昵懇になり、裏社会に人脈を築いていく。企業舎弟の代表格として3億円以上を組織に上納するうちヤクザの世界で〈自己実現したい〉と考えるようになり、1999年、25歳で工藤會系林組の組員になったと記す。

〈私にとって稼業入りすることは、人生の恢復だった。社会のルールから外れた仲間たちと共に、ここから這い上がっていきたいと思った〉

〈血を分けた本当の家族を失った私にとって、盃で繋がる一家が本物の家族だった〉

 総裁本家の住み込み修業の終了後も、麻雀やワインのお供、子息の家庭教師などで本家通いが続いた。

 2007年、盟友関係にある道仁会の三代目会長が射殺された際はカナダに渡り、重さ4トン以上の装甲車を購入した。

〈本家部屋住みや事務局時代は、カナダへ防弾車の買い付けに行ったり、海外テレビ局やニューヨークタイムズ紙の対応をしたり、やり甲斐のある仕事を次々と任せて頂いた。自己実現でき、充実した日々を送れたのは、工藤會のおかげだった〉

 いまでも淡々とこう振り返るのだ。

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※週刊ポスト2024年5月3・10日号

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