「犯人は黙秘」「動機は不明」の岸田首相襲撃テロから1年 各県警に「専門部署」新設、警備強化で「選挙演説のスキ」は埋められるのか

襲撃翌日には、大分で参院補選の応援演説に立った(時事通信フォト)

 岸田文雄首相が爆発物を投げ付けられたテロ事件から1年が経ったが、和歌山県警の調べに黙秘を貫いた木村隆二被告の犯行動機は今も不明のままだ。殺人未遂罪での公判前整理手続き開始のメドも立っていない。事件前年の7月には安倍晋三元首相に対するテロ事件もあり、警察庁は国政選挙での要人警護強化に取り組んでいるが、警察ジャーナリストの宇佐美蓮氏は「今国会会期末での解散総選挙もささやかれる中、警察中堅幹部からは強化は遅々として進んでいないとの声も聞かれる」と言う。この1年、警察内部ではどんな動きがあったのか。宇佐美氏が警察関係者の証言を交えて解説する。

岸田首相の襲撃現場には爆発物の生々しい痕跡が

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「全国の警察本部に警護専門の『警衛警護室』を20カ所ほど新たに創設した」──。キャリア官僚の警察幹部はそう胸を張る。2件の重大テロ以前は、47都道府県警には警視庁の警護課などを除き、首相その他の要人の安全を守る警護専門の部署がなかったからだ。

 警察組織では「○○部」の下に置かれた「○○課」などのセクションを所属と呼び、課に準じる部署は「○○室」と命名される。警察庁は3月、テロを踏まえて山形、三重、愛媛、大分など各地の警察本部に指示し、警衛警護室を20カ所近く新設させたことを明かした。室長は例外もあるが所属長の末席にある課長級ポストだ。

 一方で第一線の現場の警察官からは異論を唱える声も聞かれる。あるノンキャリアの警察OBは「呼び名を変えて、ハコ(部や所属)を創らせることを『改革』とか呼んで自画自賛するのが東大出のお偉いさんの伝統芸」と揶揄した上でこう言う。

「古くは防犯部を『より一層国民生活に密着したイメージにするため』として生活安全部に名称変更させたり、暴力団の活動が停滞していることから警察庁暴力団対策部を組織犯罪対策部に変えて全国警察に『受け皿(ハコ)を創れ』と命じてみたり。付き合わされる方は大変だと(現職の)後輩連中からは不満が漏れてますよ」

聴衆の頭上を越えて飛んだ爆弾

 ここで警護体制再構築のきっかけとなった岸田首相テロを振り返る。事件は2023年4月15日午前11時25分ごろに発生。和歌山市の雑賀崎漁港で、衆院和歌山1区補欠選挙の応援遊説に訪れた岸田首相の演説直前、首相らに約10メートル先から手製の「パイプ爆弾」と呼ばれる筒状の爆発物が投げ付けられ、50秒後に爆発した。

 首相は無傷だったが、近くにいた聴衆と警察官の2人が軽傷。その場で聴衆らに取り押さえられ、威力業務妨害容疑で現行犯逮捕された木村被告はパイプ爆弾1本と、手持ち花火にも多く使われる黒色火薬4グラム、刃渡り13センチの包丁1本を所持していた。

 重傷者や死者が出なかったのが不思議に思えるほど、パイプ爆弾が現場に残した痕跡は激しかった。

 爆弾2本のうち爆発した1本の筒の一部は吹き飛んで聴衆の頭上を通り越し、40メートル離れた倉庫近くにある生け簀の網の上に落下。上方の倉庫の壁には直径5センチのへこみがあったほか、さらにその先の20メートル離れた位置にあるコンテナの、高さ2メートルの位置に破片が突き刺さっており、大きさ数センチの穴が開いていた。

 爆発せずに残っていた1本には、紐でナットが複数取り付けられ、爆発の衝撃により飛散して威力・殺傷能力を高める仕組みになっていた。

 現行犯逮捕後、兵庫県内にある木村被告の自宅からは黒色火薬530グラムが押収されており、2022年11月ごろから昨年4月15日までの間、爆弾に詰められていた粉末などと合わせて560グラムの火薬をネット上の情報に基づいて無許可で加工し、精巧な爆弾本体を造り上げていた。

動機不明の計画的テロ

 和歌山県警は同5月6日、火薬を無許可で製造していた火薬類取締法違反容疑で再逮捕。鑑定留置が5月22日から9月1日まで行われ、木村被告の責任能力には特に問題がないと判断されたことから、留置期間終了直前の8月31日に殺人未遂や爆発物取締罰則違反などの容疑で追送検し、和歌山地検は9月6日に首相らへの殺人未遂罪などで起訴した。

 事件前、木村被告は被選挙権の年齢制限などを理由に2022年の参院選に立候補できなかったことに不満を持って同年6月に国家賠償請求訴訟を起こしたが、同11月18日に神戸地裁が請求を棄却していた。前述した火薬の原料を購入した時期と近接していたため、警察・検察両当局は犯行動機につながったとみており、供述がなくても首相や聴衆が死亡しても構わないという“未必の故意”が認められると結論付けた。

 ただ、警察庁関係者は「なぜ首相が標的だったのかは謎のままだ」と首を傾げる。国賠訴訟は2022年12月1日に木村被告が大阪高裁へ控訴していたが、テロ後の昨年5月25日、大阪高裁が控訴を棄却。敗訴が確定している。

 また捜査の過程で木村被告の犯行の計画性も明確に浮かび上がった。凶行前の足取り、警察内の隠語で言うところの「前足」について、和歌山県警が作成した和歌山西署捜査本部の捜査報告書を紐解いてみる。

 防犯カメラの映像ではテロ当日の午前7時台に兵庫県川西市の自宅近くでバスに乗り阪急電鉄の川西能勢口駅を経て、午前8時15分前後に大阪梅田駅で急行電車を降車。大阪メトロ御堂筋線に乗り換え、なんば駅から南海電鉄の特急サザンで1時間をかけて和歌山市駅に向かう。午前10時35分過ぎ、和歌山市駅でバスに乗り換え、同11時15分頃、現場となった漁港の最寄り停留所でバスを降りていた。和歌山県警関係者は「愉快犯ではなく明確な目的をもったテロリストであることは計画性が十二分に見て取れる行動から明らかです」と指摘する。

 他方、警察庁は昨年6月、警備体制の検証報告書を公表。和歌山県警について、自民党和歌山県連など主催者側との調整が不十分だったとし、「綿密な協議を行う必要があった」と警護計画の不備を指摘した。

 警察首脳が特に問題視したのが、演説会の詳細かつ具体的運営方法についての連携不足だ。その9カ月前に凶弾に倒れた安倍元首相も、参院選の応援演説の機会を狙われていたからである。数多くの有権者・聴衆に囲まれる国政選挙の演説のスキ・間隙を再び突かれたのは「教訓が生かされていなかった証拠」(前出の警察庁関係者)とみなされたわけだ。

「“ドブ板選挙”は警護の負担が段違い」

 2件の重大要人テロを踏まえ、警察庁は思想や主義主張を掲げる組織などに属さず人知れず過激化するテロリストの対策を強化。一昔前はローン・ウルフとも呼ばれた、このローン・オフェンダー(単独テロ犯)については刑事や生活安全、地域など各部門が捜査や職務質問で得た要注意人物情報について、警備部門に集約する制度を導入したほか、サイト管理者などへの削除要請対象に爆発物や銃の製造に関する情報を追加。昨年、実際に削除させている。

 また銃刀法を改正し、銃の製造法投稿を罰則付きで禁止する方針だ。「しかしこれは地道な警護の強化策ではありますが、結局は“対症療法”に過ぎないのです」(同前)。その上で「1981年にシークレットサービス(ボディーガード)に囲まれて車に向かっていた講演後のロナルド・レーガン米大統領が拳銃で撃たれた事件が典型例ですが、要人警護に絶対はないのです」とも語る。

 警察中堅幹部が話を引き継ぐ。

「選挙運動中の警護には、日本ならではの難しさもあります。直接選挙の米大統領と、小選挙区と間接選挙による日本の首相の差ですが、大会場での選挙演説と、小規模集会や車座対話を繰り返す“ドブ板選挙”は警護の負担が段違いです。

 聴衆を一人一人チェックしようとすると『顔見知りしかいない』と議員事務所や党関係者から断られることすらあります。政治家は人気商売ですが、有権者と小まめに握手を交わして愛想をふりまくより政策で勝負する意識が、自身を守る上でも重要だと理解して欲しい」

 選挙運動と要人警護の両立には、まだ高いハードルがある。

【プロフィール】
宇佐美蓮(うさみ・れん)/1960年代、東京都大田区生まれ。ジャーナリスト。元マスコミ記者で、警視庁や警察庁の取材に長く携った。著書に小説『W 警視庁公安部スパイハンター』がある。

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