性虐待の被害を文章にするのは桁違いにハードルが高かった。勇気を出して書いたことで「相手がおかしいよ」と複数人に言われ、ようやく呪縛が解けた

おびえる様子のイメージ

イメージ(写真提供◎Photo AC)
父親による性虐待、母親による過剰なしつけという名の虐待を受けながら育った碧月はるさん。家出をし中卒で働くも、後遺症による精神の不安定さから、なかなか自分の人生を生きることができない――。これは特殊な事例ではなく、安全なはずの「家」が実は危険な場所であり、外からはその被害が見えにくいという現状が日本にはある。
何度も生きるのをやめようと思いながら、彼女はどうやってサバイブしてきたのか?生きていく上で必要な道徳や理性、優しさや強さを教えてくれたのは「本」という存在だったという。このエッセイは、「本」に救われながら生きてきた彼女の回復の過程でもあり、作家の方々への感謝状でもある。

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前回「ままならない日々の中に飛び込んできた子どもからのSOS。私が虐待被害を「書くこと」を決めた日」はこちら

書くことで内側が整うのを感じた

虐待被害の実態を表で書くと決めたものの、当初は自分の体験を詳細に綴る勇気がなかった。ふんわりとぼかした内容をSNSで発信するだけの自分に、何の意味があるのだろう。そう思っては臆するの繰り返しで、父から受けた性虐待の事実を自分ごととして文章にできたのは、発信活動をはじめて3ヵ月後のことだった。暴力や暴言の被害を書くことに比べて、性虐待のそれは、桁違いにハードルが高かった。

誤解してほしくないのだが、「性虐待が一番つらい」と言っているわけではない。虐待の種類によって痛みが決まるわけではないし、そもそも痛みは人と比べるものではない。性虐待以外の虐待被害を軽視しているわけでは決してない。ただ、あくまでも私の場合、性虐待被害を打ち明けるのにもっとも勇気がいった。それだけの話である。

「知られたくない」という恐れ、羞恥、戸惑いが終始襲いかかる。その気持ちに拍車をかけるように、心ないDMやコメントがいくつも届いた。それらを見るたび、喉を塞がれたような思いがした。

「本当はあなたも楽しんでいたんじゃないですか」

そんなわけあるかよ、ふざけんな。そう怒鳴り散らしたくとも、相手は匿名の人間で、どこの誰かもわからない。「言葉」という拳で殴り続けられる日々は、どんなに嬉しい瞬間があろうとも、やはり楽ではなかった。だが、昔から慣れ親しんだ「読み書き」の時間が増えるにつれて、内側が整っていくのを感じていた。

私は、思っていることを口頭で伝えるのが至極苦手だ。相手の表情や空気に臆して、自分の思いをすぐさま飲み込んでしまう。笑いたくなくても笑い、謝らなくてもいいのに謝り、許したくないのに許してしまう。でも、文章でなら伝えられた。怒りを、やるせなさを、悲しみを、痛みを。両親が私に押し付けたものを伝えるにあたり、私には文章以外の方法がなかった。

「何に傷つくか」を決めるのは自分

長男の習い事、PTA役員、次男の送迎、家事全般。合間にイレギュラーに発生するあれこれをこなしつつ、日中は内職もした。元夫には「焼け石に水」と止められたが、私はそれを無視した。離婚するなら、少しでも貯金が必要だ。そんな意識が、頭の片隅でうごめいていた。

文章を書く中でつながった友人たちは、みな例外なく元夫の暴言に憤った。両親の虐待にとどまらず、元夫から吐かれた屈辱的な台詞を文章にするたび、大勢が「それはおかしい」と言ってくれた。中でも、元夫の常套句である「それぐらいで傷つくお前がおかしい」に対しては、相当数の批判が殺到した。

「それを決めるのは夫さんじゃないでしょう!」

私が「何に傷つく」のか、「何に憤る」のか。それを決められるのは私自身だけなのだと、周囲の声を受けて思えるようになった。自分の感情を自分で決める選択肢さえ剥奪されていたのだと、ようやくそれに気付けた頃、彼との結婚生活は10年以上が経過していた。

子育てと同じく、DVやモラハラには洗脳に近い要素がある。「お前に問題がある」と言われ続けると、それがどんなに理不尽な言い分だとしても、「そうかもしれない」と思ってしまう。そうなれば、周囲に相談することは難しい。

私はたまたま、書く活動を通して「それは相手がおかしいよ」と複数人に言われ、ようやく呪縛が解けた。あのとき、表で書きはじめていなければ、私はまだあの人と生活を共にしていただろう。

「書く」を「仕事」にする難しさ

書いて、読んでを繰り返す日々は、私に生き甲斐をもたらした。何も持っていない私でも、文章を通して人と心を通わせられる。それは至上の喜びで、生まれてはじめて自分の存在価値を認めてもらえたような気がした。集まれば誰かの悪口大会がはじまるママ友コミュニティのランチより、スマホの向こうにいる信頼できる相手とのテキストコミュニケーションのほうが、よほど私の心を温めた。

互いの文章を読み、感想を伝え合い、それぞれの信念を語り合う。そういう時間はかけがえのないもので、渇き切った心が満たされていくのを感じた。「性虐待」という重い過去を持つ私を、多くの人がフラットに見てくれたのが救いだった。書く時間を捻出するために、睡眠時間と余暇時間をひたすら削った。ただただ夢中で、毎日書いて、毎日読んだ。

スマホで通信しているイメージ

イメージ(写真提供◎Photo AC)

どう書いたら虐待被害の実態を伝えられるのか、試行錯誤しながら「書く」を「仕事」にする方法を模索した。当時スマホしか持っていなかった私は、スマホで毎日3,000〜5,000字のブログを書き、SNS上に投稿していた。その投稿を200日欠かさず続けたのち、週一更新に切り替えてからは文章の質にこだわった。しかし、何度コンテストに応募しても落選した。

周囲からは実力以上に高い評価をもらえていたため、正直落ち込んだ。コンテストのピックアップ記事には取り上げてもらえるのに、どうしても入賞できない。自分の実力のなさを棚に上げて、「私の作品はテーマがセンシティブだからはじかれる」と思うことで逃げていた時期もあった。でも、どこかで気づいていた。自分の実力が足りていないことにも、行動力が足りていないことにも。

ブログは何度かバズったが、それが仕事につながることは一度もなかった。受け身の姿勢で生き抜けるほど甘い世界ではないのだと、仕事で書けるようになった今ならよくわかる。だが、当時の私はいつまでもグズグズと待っていただけだった。誰かに拾い上げてもらえるのを、安全な場所でじっと待つ。そういう甘えが、文章にも滲んでいたのだと思う。

書くことで救われたいのは「私」だった

友人たちとの交流は楽しかったが、一方でなかなか結果を出せない現実に焦りはじめてもいた。文章を広く届けるためには、何らかのメディアで執筆する必要がある。ブログには限界があり、あくまでも趣味の域を出ない。何より、離婚して息子たちを養っていくためには、仕事が必要だ。

自身の不安定なメンタルと、何かと手のかかる息子たち。それらの現実と折り合いをつける上で、自宅にいながらできるライターの仕事は最善だと思われた。だが、取っ掛かりを作る方法がわからない。何より、公式のコンテストで一度も結果を出せていない事実が、私の自信をわかりやすく奪った。

向いていないのかもしれない。エピソードが強いから、みんなが優しくしてくれているだけなのかもしれない。いつしかそう思うようになり、どんどん自分の文章が嫌いになった。西加奈子さんの小説を貪るように読みはじめたのは、そんな時期だった。

大量の本のイメージ

イメージ(写真提供◎Photo AC)

“「赤が嫌いなときに見る赤と、赤が大好きなときに見る赤は、全然違って見えるけど、赤そのものは、ずっと赤なんです。赤であり続けるだけ。見る人によって、それがまったく違う赤になるというだけで。」”

西加奈子さんの小説『白いしるし』(新潮社)の一節である。画家同士である夏目と間島、周囲の人間が絡み合う恋の物語。本作には、恋愛要素だけではなく創作に携わる者にとって心に残る場面が多々ある。上記の夏目の台詞は、落ち込んで捻くれていた私の心に静かにとどまった。

同じ「赤」でも、見る人の状態によって違う「赤」になる。文章もそれと同じだ。読む人によって受け取り方は異なり、好き嫌いも心情により変化する。作品の質を上げる努力は怠るべきではない。だが、最善を尽くした先でどう「読まれるか」は私の手の及ぶ範囲ではないのだ。そう思ったら、ふっと気持ちが軽くなった。そして、冷静に周りを見られるようになった。

仕事で書いている人の多くは、自らメディアに企画を持ち込んでいる。自分に自信がなかった私は、その一歩を踏み出す勇気がなかった。しかし、それでは何も変わらない。変えられない。私は、変わりたかった。抜け出したかった。尊厳を取り戻したかった。虐待被害を減らしたい気持ち同様、「私が」救われたかった。

その後、紆余曲折を経て離婚が成立し、私は無事に「書いて生きる」を叶えられた。物語に幾度となく背中を押され、書くことを諦めずにしがみついてきた私は、今月、はじめての本を出す。

※引用箇所は全て、西加奈子氏著作『白いしるし』(新潮社)本文より引用しております。

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