<無罪確定>袴田巌さんを半世紀以上支え続けた世界一の姉・ひで子さん「職場の昼休みに流れたテレビのニュースで事件を知って…」
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【写真】「戦後最大の冤罪事件」袴田巌さんを信じて支えた姉のひで子さん。20歳のころ
長女の帰宅直後に一家4人が惨殺
1966(昭和41)年6月、高度経済成長に驀進する列島を熱狂させたのが、英国の世界的人気バンド、ビートルズの来日だ。
日本航空の法被を着た4人が羽田空港に降り立ち、6月30日から3日間に及ぶ「伝説の武道館コンサート」が行われた。
今でこそミュージシャンの武道館ライブは珍しくないが、当時は主催した読売新聞社の正力松太郎会長が「武道のための神聖な場をわけのわからん連中に使わせるな」と発言して物議を醸した。
翌年に『ブルー・シャトウ』の大ヒットを飛ばすジャッキー吉川とブルーコメッツ、ザ・ドリフターズ、内田裕也らの1時間近い前座の後、タレントのE・H・エリックの司会で4人が登場。
『恋をするなら』、『シーズ・ア・ウーマン』、『イエスタデイ』などを披露した、後にも先にもビートルズとして唯一の来日コンサートが初めて開かれたのが、6月30日の夜だった。
この歴史的コンサートの前夜、6月29日の午後10時頃、静岡県清水市横砂(当時)を通る国鉄(現JR)東海道線に面する「こがね味噌」の橋本藤雄専務(当時)の家に、長女・昌子さん(当時)が京都旅行から帰宅した。
橋本邸は清水駅と興津駅の中間に位置するが、両駅からは3キロくらいある。閉まっていた表のシャッター越しに「今帰った」と昌子さんが声をかけると、中から「ああ、わかった」と父・藤雄さんの声がしたという。
昌子さんは家には入らず、祖母と住んでいた近くの社長宅に帰って寝た。
日付が変わって30日の午前2時前頃、「火事だどうー」という大声が夜陰をつんざいた。異変に真っ先に気づいたのは、隣家の国鉄職員・杉山新司さんだ。杉山さんは2階の窓から煙が部屋に入ってきて急に寝苦しくなり、家族を叩き起こした。
深夜の火事
消防署へ急報したのち、橋本家に火事を知らせようとしたが、表のシャッターが開かなかったという。近所の男たちが次々と出てきて、「藤雄さん、火事だぞ、起きろ」とシャッターをガンガン叩いたが反応はない。
なんとか開けた(シャッターに鍵がかかっていたのかどうかは後に疑問になる)が、真っ黒な煙で何も見えない。地域の消防団も駆けつけ、とび口などで裏側の頑丈な木戸などを壊す。
工場内の寮に住んでいた従業員の佐藤省吾さんが中へ入ると、シャッターの表口の近くの8畳の寝室では妻・ちえ子さん(当時)と長男・雅一郎さん(当時=袖師中学3年)が、そして台所横のピアノの間のピアノのそばで二女・扶示子さん(当時=静岡英和学院高校2年)が倒れていた。
妻子3人の遺体は炭化し顔もわからない。昼近くなって土蔵近くで藤雄さんの遺体を消防隊員が見つけた。扶示子さんは大のビートルズファン。友人2人と7月3日の武道館公演を楽しみにし、チケット(4000円)を手に入れ、服も靴も新調していたという。
だが、世紀のコンサートの直前に若き命を絶たれてしまった。橋本邸は懸命の消火作業も及ばず全焼し、午前2時半頃鎮火した。
しかし、8畳間の布団やマットなどに大量の血が残され、失火による焼死ではないことがすぐに推察できた。至るところでガソリンの匂いがした。柱時計は2時14分を指していた。
藤雄さんは、「こがね味噌」の創業者で県内有数の味噌会社に育てた藤作社長(当時)の一人息子。入院中の藤作社長は息子一家の惨劇に、「息子は人に恨まれるようなことは何一つないはずだ。
自分は損しても負けておけという私の言うことをよく聞き、決して他人とは争うことはなかったのに」と立ち尽くした。
県味噌工場協同組合の稲盛利次理事長は藤雄さんについて、「しっかりした経営と文句のない人柄。袖師(自宅付近の地名)の消防分団長もしており火(の管理)には厳しかった。火事とは考えられない」などと話した。
「凶悪を通り越し猟奇的」
4人の遺体は県立富士見病院(現・県立総合病院)と国立静岡病院(現・静岡てんかん・神経医療センター)で司法解剖された。
藤雄さんは全身に3度の火傷を負っていたが、後頭部、胸部、肩などに15カ所に刺し傷や切り傷があり、死因は「失血死」。致命傷は心臓の12センチの刺し傷だった。
妻のちえ子さんは4度の火傷で、背中など13カ所を刺されて、死因は失血と火傷だった。
二女・扶示子さんは全身に3度から4度の火傷に加え、胸などに9カ所の刺し傷があり、心臓の傷による失血と一酸化炭素中毒が死因とされた。
長男の雅一郎さんは4度の火傷、首、胸、手など12カ所刺され、死因は肺からの出血などだった。明らかな殺人事件に清水署の沢口金次署長は「凶悪犯罪を通り越して猟奇的なものでさえある」とコメントした。
妻と二女、長男は就寝場所で死んでおり、家の中を動いたのは犯人と格闘したと思われる柔道2段の藤雄さんだけだった。
清水署に「横砂会社重役強殺放火事件特別捜査本部」の看板が据えられたが、犯人は杳(よう)としてわからない。
幕末から明治にかけて活躍した博徒で実業家の清水次郎長(本名・山本長五郎)で知られ、「三保の松原」などの美しい海岸が広がる港町に緊張が走った。
たまたま不在だった同室者
放火殺人事件の夜、袴田巖さんは「こがね味噌」工場2階の従業員寮で寝ていた。プロボクサーだった巖さんは引退後、清水市のキャバレー「太陽」で働いた後、独立してバー「暖流」を経営するがうまくゆかず、「こがね味噌」に住み込みで勤めていた。
無口で働き者の巖さんを藤雄さんは可愛がった。巖さんは早くに結婚し一男をもうけたが、妻は男を作って去り、2歳の息子は巖さんの両親のもとで育てられていた。
従業員寮は相部屋だったが、事件の夜、巖さんと同室の佐藤文雄さんは居なかった。この頃、藤雄さんの父藤作さんはリウマチで入院し、祖父と同居していた孫の昌子さんは旅行に出ていた。
不用心を心配した藤作さんの妻のために、巖さんと寮で同室の佐藤文雄さんが離れの社長宅に一緒に泊っていた。これが巖さんのアリバイ証明を困難にした。
火災発生時、寮に住む従業員の佐藤省吾さんは、消防のサイレンで目が覚め、相部屋の同僚を起こして寮の階段を下りた。巖さんの部屋のガラス戸は開いていたが、中は見ずに外へ出たという。2人して寮の階段を下りた。
巖さんの部屋のガラス戸は開いていたが、中は見ずに外へ出たという。2人は工場敷地にある消火ポンプのホースをつなぎ、近くに住む村松喜作さんとともに放水した。
村松さんは「無事だった土蔵に家の人が逃げているかもしれない」と思い、土蔵近くの物干し台に上った。
「バールを持ってこい」と叫ぶと、佐藤省吾さんと巖さんがやってきた。放水で2人ともずぶ濡れで、巖さんは白っぽいパジャマ姿だったと村松さんは記憶していた。
遅れて駆け付けた「こがね味噌」の従業員の山口元之さんも、パジャマ姿でびしょ濡れの巖さんが工場に歩いてくるのに出会ったという。だが、これらの「アリバイ証言」は警察によって潰されてゆく。
職場で知った惨劇
浜松市常盤町の「富士コーヒー」に勤めていたひで子さんは、昼休みにテレビのニュースで事件を知る。
「あれっ、清水のこがね味噌って、巖が勤めてる会社じゃないの。えっ、巖が『よくしてもらっている』って言ってた専務さんが殺されたなんて。巖は今、どうしてるんだろう」携帯電話などない時代。
「こがね味噌」の固定電話になんとか連絡すると、弟は「寮で寝てたら専務の家が火事になった。強盗だか何だかわからん」などと興奮気味に話した。
事件のあった週末も巖さんは、実家に預けている幼い息子に会うため、浜北市(現・浜松市浜北区)を訪れ、ひで子さんも実家に戻った。
父の庄一さんは当時中風(ちゅうぶ:脳卒中の後遺症)で寝たきりだった。 家族は巖さんが犯人だと思うはずもないが、怨恨としか思えない橋本一家の惨殺ぶりに、ひで子さんや母のともさんは、「巖が変なことに巻き込まれていなければいいけど」と心配はしていた。
それでも、巖さんが近所の人に、「寝てたら専務の家が火事になった。みんなで必死に消したけど、どうしようもなかった」などと話す普段と変わらない様子に安心した。
だがその後、巖さんが殺人、放火などの容疑で逮捕され、33歳のひで子さんの人生は一変する。
昭和30年代にあって「翔んでるキャリアウーマン」だった
ひで子さんは20歳で恋愛結婚をしたが、21歳で別れてしまう。「まあ、性格の不一致でしたね」(ひで子さん)。
その後、母親からは「しょうもない男でも 男は男だから」と再婚を勧められた。しかし、ひで子さんは「しょうもない男なんかと結婚なんかできるか」と突っぱねていた。
「事件の後、『弟のために結婚を断念した』なんて 言われたり書かれたりしていたけど違うんですよ。巖には関係なく、結婚なんかアホらしくてしてられるか、という気持ちでしたね」 と笑って振り返る。
ひで子さんは中学を出て務めた税務署を「女はお茶くみのようなことばかりさせられる」と、13年で退職し、民間の会計事務所に勤めた。
その後、「富士コーヒー」で主に経理を担当し、優れた能力を発揮していた。社長に紹介された経営者から経理帳簿を預かり、経理を代行した。
「商売人たちは人付き合いは上手でも、細かい経理が苦手な人は多い。私は税務署や税理士事務所にいたから、そういうのは得意。1件当たり3万円とか5万円とか。ずいぶん稼がせてもらいました」遊ぶ時は男性とばかり付き合っていたとか。
「女の友達はいろいろとややこしい。男のほうが性に合っていた。独身で週末には行くところもない男連中をアパートに集めては、毎週、麻雀を楽しんでいましたよ」
「女は早く結婚して家庭に入るべし」との社会通念が強かった昭和30年代にあって、ひで子さんは「翔んでるキャリアウーマン」だった。
「20代から33歳までは、本当に青春を謳歌して、好き放題やっていましたね」世を震撼させた放火殺人事件は、そんな頃に起きた。
事件の後、巖さんは「警察が近づいてきて『中瀬(実家の地名)の神社はどこですか?』なんて聞いてくる。どうも俺を尾行しているみたいなんだ」と話すようになった。
それでも、ひで子さんやともさんは「あれだけの事件だからね。警察は一応、従業員全員を疑ってかかり、みんなが尾行とかされているんだろうよ」などと話し、さして気にもしなかった。
だが、次第に雲行きが怪しくなる。
※本稿は、『袴田巖と世界一の姉:冤罪・袴田事件をめぐる人びとの願い』(花伝社)の一部を再編集したものです。
11/06 12:31
婦人公論.jp