「道長をも恐れない」存在となる彰子。『源氏物語』によるプレッシャーをはねのけ、男子を2人出産後に24歳で独り身に…<道長の手駒>から解放されるまで
大石静さんが脚本を手掛け、『源氏物語』の作者・紫式部(演:吉高由里子さん)の生涯を描くNHK大河ドラマ『光る君へ』(総合、日曜午後8時ほか)。ドラマの放映をきっかけとして、平安時代にあらためて注目が集まっています。そこで今回は一条天皇が亡くなるまでの彰子について、新刊『女たちの平安後期』をもとに、日本史学者の榎村寛之さんに解説をしてもらいました。
12歳の入内から、70年近くも宮廷の中枢に座った彰子。定子とは一度も顔を合わせたことがない?ライバル「3人の女御」とは?『光る君へ』で描かれなかった<道長の作戦>について
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『源氏物語』「若菜(上)」
〈長徳の変〉で定子中宮の権威が大きく削がれた後、一条天皇の後継者を誰が産むのかについてはかなりの舞台裏の駆け引きがあったようで、それは多感な10代の彰子にも大きく関係していた。
中宮は天皇と同等の扱いだが、女御は位階を受ける、いわば臣下に過ぎず、彰子の地位の高さには圧倒的なものがあったが、今のところの切り札は養育している敦康親王しかいない、その不安定な境遇の中で彰子はどのような思いだったのか。
もとより彼女の心情を記した記録はないので、10代前半のその思いなどは知る由もないのだが、一つだけ、周囲の期待をうかがわせるエピソードではないかなと思うものがある。
それは『源氏物語』「若菜(上)」である。
この話の中では、一つ前の「藤裏葉」で後宮に入った源氏の娘、明石の姫君が女御となり、皇子(東宮)を出産する。
このとき彼女は13歳の設定で、源氏の女君の中でも飛び抜けて若い母親になっている。
彰子に課せられた責任
夫である帝(光源氏の異母兄の朱雀院の皇子)の年はわからないが、この内容が一条天皇へのアピールだとすれば、彰子がまだ幼くても、成長を待つ必要はないと急かしているようにも取れる。
国文学でよくいわれるように、彰子のサロンで一条天皇が『源氏物語』を読んだとすれば、そして『源氏物語』の中でも見られたように、女房が読み聞かせていたとするならば、さらにいろいろなことが考えられる。
もしも「若菜(上)」がこのころに完成していたならば、それを読んでいた彰子は、自らに課せられた責任の重さに強いプレッシャーを感じていたのではないか。
そしてこうした状況は寛弘5年(1008)、敦成親王(のちの後一条天皇)の誕生まで続くことになる。
「若菜(上)」を彰子と一条天皇がいつ読んだのかは明らかではない。
敦成親王を出産
9月10日、彰子は大変な難産の末に敦成親王を出産した。
『紫式部日記』には、「御もののけのねたみののしる声などのむくつけさよ(物の怪が恨んで騒ぐ声のおどろおどろしさよ)」「阿闍梨の験のうすきにあらず、御もののけのいみじうこはきなりけり(坊さんの霊力が弱いのではなく、物の怪がものすごく強いからだ)」などと記されている。
摂関家出身の中宮はそれだけたくさんの怨みを買うものだと認識されていたのであり、それから身を守るバリアである高僧の加持祈祷とのせめぎ合いの中で出産がおこなわれたのである。
この出産によって藤原道長の天下はようやく安定したといえる。
『源氏物語』が上流貴族の話題に
ちなみに藤原公任が「このわたりに若紫やさぶらふ」と紫式部のいるところでからかったのは敦成の五十日の賀のときで、このころにはすでに『源氏物語』が、多くの上流貴族の話題になっていたことがわかる。
そして関白藤原頼忠の長男であり、その才能で知られ、漢詩人としても強い誇りを持っていた公任が「僕も知ってるよ」と、間接的に道長におもねるようなことをしたことからも『源氏物語』がただのライトノベルではなく、彰子サロンの価値を高めるほどの「ひらがな文芸」と評価されていたこともわかるのである。
彰子は翌年、敦良親王(後朱雀天皇)を出産する。幼児死亡率の高い時代であり、2人目の男子の出産は、道長の権力をより高めたことだろう。
しかしその2年後、一条天皇は32歳で亡くなり、彰子は24歳で独り身になる。
つまり、道長の手駒として子供を産む義務から解放されたのである。
おまけの話
藤原彰子は、従姉の定子や妹の妍子のような華やかな性格ではなかったが、女房たちをはじめ周りの人たちへの気配りに富んだ、いわば親分肌の人だったようだ。
そんな性格は、『紫式部日記』にも出てくる、紫式部から学んだ白楽天の『新楽府』(このエピソードは『光る君』にも出てきた)によって磨かれたのではないかと思われる。
この書は、漢詩の形で、「正しい政治のあり方」を説いていて、彰子はここから、長者として人々に接する心構えを学んだのではないか。
一条天皇が亡くなり、三条天皇が即位するにあたり、東宮になったのは、彰子がものすごいプレッシャーの中で産んだ敦成親王(後一条天皇)だった。
しかし彰子はそれを喜ばず、一条と定子の長男で彰子が育てていた敦康親王でなかったことについて、道長を大変「怨んだ」らしいと、藤原行成がその日記『権記』に書いている。
彰子から見て、父の行いは、正統な後継者をないがしろにする、理想の長者からかけ離れた姑息なものに映ったのではないだろうか。
道長すらも恐れない、彰子の親分肌をしのばせる話である。
※本稿は、『女たちの平安後期―紫式部から源平までの200年』(中公新書)の一部を再編集したものです(末尾の「おまけの話」は本稿のための書きおろしです)。
10/29 12:02
婦人公論.jp