蓋をしていた性虐待の記憶が蘇ったきっかけは、父の酒乱と再度繰り返された性暴力だった
何度も生きるのをやめようと思いながら、彼女はどうやってサバイブしてきたのか?生きていく上で必要な道徳や理性、優しさや強さを教えてくれたのは「本」という存在だったという。このエッセイは、「本」に救われながら生きてきた彼女の回復の過程でもあり、作家の方々への感謝状でもある。
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息子を連れての帰省中、酒乱に陥った父
長男の希望で次男を授かり、喜びに包まれたのもつかの間、私と元夫の関係は悪化の一途をたどった。不定期に暴言を吐く彼の癖は、次男が生まれても変わることはなかった。しかし、私がたまりかねて離婚を切り出すと、泣きながら謝罪する。時には自ら土下座までする彼を、私は都度許してしまった。弱かったのだと思う。結局私は、どこかで思いきれなかったのだ。子どものため、だけではない。一度は愛した人を、生涯を共にしたいと思った人を、私は容易には諦めきれなかった。
この時期の私は、同時にある現象にも悩まされていた。それは、失った記憶の浮上だった。結婚が決まったのを境に、両親から受けた虐待の一部が私の中から欠如したことは、過去のエッセイ(性虐待を受けて家を飛び出した後、転機となった元夫との出会い。「普通のふり」を重ねるうちに書き換えられた記憶と、体に染み付いたトラウマの傷)で綴った通りである。記憶の欠如は、私自身を守るために必要な防衛本能だったのだろう。
欠けていた記憶が自分の中に蘇ったのは、子連れで実家に帰省したことに端を発する。性虐待の記憶が抜け落ちていた私は、出産後、不定期ではあるものの孫の顔を見せるために実家に帰省していた。それが世間でいうところの「ふつう」であったし、帰らない理由をあれこれ詮索されるのが煩わしかった。元夫は仕事が忙しかったため、帰る時はいつも私と子どもたちだけだった。私の行動の軸は、どこまでも「自分」ではなく「世間の目」に置かれていた。それが、誤りだった。
次男の出産を控えた年末年始、子や孫の帰省中にもかかわらず、父は泥酔して家具を破損するほど暴れた。昔の私だったら、そこで恐れをなして固まっていただろう。だが、私の隣には長男がいて、お腹の中には次男がいた。守らねばならない存在がある。その事実が私を強くした。この日、私は生まれてはじめて、父に敢然と立ち向かった。
「なんでそんなになるまで飲むのよ!子どもたちが怖がってるでしょう!いい加減にしてよ!!」
私の怒声を聞いた父は、一瞬何が起きたのかわからない様子だった。押し黙り、まごまごと周囲を見回し、それからようやく怒りを発露した。
「誰に向かって口聞いてんだ!」
父の怒鳴り声は、昔の私にとって恐怖の象徴だった。しかし、この時の私には怒りの感情しかなく、恐れはずっと遠くにあった。なぜ、こんなになるまで飲んでしまうのか。なぜ、大人なのに飲酒量をセーブできないのか。ただただ腹立たしく、私は容赦なく父の弱さを糾弾した。
当時の私は、アディクションに対する知識が今よりも足りていなかった。依存症は、己を律することができない状態にあるからこそ「依存症」なのだ。父が必要としていたのは、叱咤でも懲罰でもなく、適切な治療だった。だが、私も、ほかの家族も、父を治療につなげる手段を見出すことができなかった。
言い訳を重ねる両親に突きつけた絶縁宣言
アルコール依存症。受診すれば十中八九その病名がつくであろう父は、しかし頑なに「自分はまともだ」と主張した。少し飲みすぎてしまっただけだ、正月中、孫たちに会えて気が大きくなっていた、ほんの少し羽目を外しただけなのだから大目に見てほしい。翌朝、酔いが冷めた父はそのようなことを延々と繰り返し、母もそれに同調した。
「お父さんは、あんたたちが帰ってくることを本当に楽しみにしていたんだよ。だからちょっとはしゃいでしまっただけで、悪気はなかったんだよ。お正月なんだし、ね?あんたがいつまでも怒っていたら、子どもたちも気を使うし……」
カーテンレールを壊した挙げ句、窓にヒビを入れることのどこが「ちょっとはしゃいでしまっただけ」なんだ。
そう言い返せればよかった。しかし、母が父を庇う様を見て、私はひどく脱力した。率直に、“もう、いい”と思った。この人たちは、これからもこうやって生きていくんだろう。都合の悪いことには目をつむって、耳を塞いで、自らの悪行を省みるのではなく、それを指摘する人を「いつまでも怒っている人」扱いして、そうやって自分たちがこしらえた安全圏の中でひっそりと生きていくのだ。だったらもう、好きにすればいい。
「また“はしゃいで”子どもたちに怪我でもさせられたらかなわないから、新幹線の切符が取れ次第、私たちは帰ります。こんな家、二度と帰ってきません」
それだけを言い残し、私は両親のそばを離れた。元夫は、酒を飲まない。私はある程度嗜むものの、父のような飲み方は絶対にしない。だから長男は、この時はじめて「酒乱」というものを見た。
「夕べのじいじ、どうしちゃったの。あれ、なんだったの?」
長男の質問に、私は答えられなかった。謝ることしかできない自分を、心底無力だと思った。
帰宅前夜、「話がしたい」と父が言った
翌日の新幹線にわずかながら空きがあったため、私と息子たちは予定より数日早く帰宅することとなった。私のその判断を母は「冷たい」となじったが、私は聞く耳を持たなかった。父は孫たちに直接的な暴力こそ振るわなかったが、壊れたカーテンレールの破片が絨毯に飛び散り、息子がそこに手をついて怪我をした。ほんのり血がにじむ程度の些細な怪我だったが、私は怒り心頭であった。そもそも、酒に酔って暴れる姿を見せることそのものが立派な暴力である。
そうだ、こういう家だった。こういう親だった。自分が何も悪くなくても、一方的に痛みを負わされる場所だった。そんなところに息子たちを連れてきたのが間違いだったのだ。
実家で過ごす最終日、日中は祖父母の家に逃げ込んだ。祖父母は、実家から車で30分程度の場所に住んでいる。祖母は数年前に他界したが、この時はまだ健在だった。ひ孫の顔を見るたびに喜んでくれる2人の存在が、私にとって救いだった。
しかし、2人はこの時点でかなり高齢だったため、宿泊を願い出ることはできなかった。祖父母宅を後にしたのち、夕飯を外で済ませて寝る段になってから帰宅した。正月中だったため、ホテルなどの外泊先はどこも満室で、空きがあっても高額でとても手が出なかった。しぶしぶ帰宅し、歯磨きと風呂を済ませて、早々と布団に入った。私の緊張感を察した息子たちは、いつもより手がかからない、大人がいうところの“いい子”だった。
すんなりと寝息を立てはじめた長男の顔を見ていると、ふいに物悲しい気持ちに襲われた。「実家に帰るとホッとする」と多くの人が言う。でも、私にはその感覚がわからない。長男が生まれて以降は、義務感だけで帰省していた。床が軋むこの家に足を踏み入れた途端、私の体はどこかしらが拒絶反応を起こしてしまう。この日は、頭痛と目眩だった。
深く長い溜息を吐き出し、水を飲みにいこうと重い腰を上げた。ギイと鳴る扉の音、私がかつて使っていた部屋の床が軋む音。それらを聞くだけで心がざわめく。その理由を忘れたままでいられたら、私は今よりも生きやすかっただろうか。
台所に立った私に、背後から掠れたような声が響いた。
「少し、話がしたいんだ」
私にそう言ったのは、父であった。母はすでに寝室で寝息を立てていた。応じてはならない。脳内で鳴る警笛はその一択だけを告げていたのに、私は「うん」と答えた。なぜなのかは、今でもわからない。
私の体に伸びてきた父の手
父が座るコタツのそばに、見慣れたコップがあった。父がいつも焼酎を飲む時に使うコップだった。思わず顔をしかめると、「中身は水だ」と言い訳がましく言われた。どちらでもよかった。自分にはもう、関係ない。好きなだけ酒を飲んで、好きなだけなにかを壊して、そうして早くいなくなればいい。そう思っていた。
「お父さん、お酒弱くなったんだ」
ぽつりとそう言った父は、「昔はあれくらいの酒で、あんなふうにはならなかったのに」と嘆いた。人の記憶など当てにならない。この時ほど、強くそう思ったことはない。昔、自分がどれだけ暴れたか覚えていないのだろうか。酒の量など関係なく、気分次第で何度も私に手を挙げたことを。
「お酒、やめれば」
静かにそう言った私に、父はへらっと笑いかけた。その顔に、見覚えがあった。口元だけが笑っていて、目は笑っていない。どんよりと濁った目が、父の飲酒を物語っていた。「中身は水」ではないのだな、と痺れた頭の片隅でぼんやりと思った。
「お父さん、この前、釣りに行ったんだ」
唐突に話題を変えた父は、なぜか腕を私のほうに伸ばした。そして、釣りの話を続けた。
「魚がどういう場所にいるか知ってるか?何もない広い海の中より、岩場とか隠れる場所があるところにたくさんいるんだよ。ほら、こういう感じのところ」
父の指が、私の太ももと陰部の境目をなぞっていた。小魚がそこでうごめいているような、妙な錯覚に襲われた。このあと、何が起きるのかわかっていた。この指がどこに向かってくるのか、わかっていた。わかっていたのに、一寸たりとも動けなかった。
08/29 12:30
婦人公論.jp