千利休から数えて15代目、茶道・裏千家の千玄室「お茶で世界を平和に。101歳、裏千家大宗匠の願い」

「身分の枠にとらわれず、差別なく、あらゆる人々が一わんのお茶を楽しみながら和やかな心になる。お茶の精神には、そんな平和への祈りが込められているのです」(撮影:霜越春樹)
千利休から数えて十五代目となる茶道・裏千家の千玄室大宗匠。戦中は特攻隊に志願し、戦後は国内外で茶の湯を通じて平和を訴える活動を続けています(構成=野田敦子 撮影=霜越春樹 写真提供=裏千家)

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【写真】1984年、ヴァチカンでローマ教皇ヨハネ・パウロ二世に謁見。左は妻の登三子さん

身分にとらわれない、お茶の精神

昨今、あちらこちらで「人生100年時代」と言われるようになりました。かく言う私も、この4月で101歳。お茶の家に生まれ、戦争を生き抜いた人間の一人として、皆さんにお伝えできることがあるに違いない。そう思い、平和を願いながらお茶を点(た)て、茶道の心について世界各地でお話をしています。

お茶は地位の高い人や経済的に豊かな人が楽しむものと思っている方も多いかもしれませんが、決してそうではありません。千利休の時代から、武士は刀を外して茶室に入りました。身分の枠にとらわれず、差別なく、あらゆる人々が一わんのお茶を楽しみながら和やかな心になる。お茶の精神には、そんな平和への祈りが込められているのです。

ところが私は、この「平和」という言葉について、思うところがあります。この頃は皆さん、「平和」という言葉を簡単に使うようになりましたね。しかし、それだけで平和は来るのでしょうか。残念ながら来ません。どれだけ大声で叫んでも、熱心に旗を振っても平和は来ない。なぜか。まず、自分自身を振り返ることから始めましょう。

あなたは今、本当に平和ですか。夫や恋人、親や子、友人たちと喧嘩を繰り返しているかもしれません。いつの間にか傷つけ合う関係になって、苦しんでいる人もいるでしょう。目の前の人と争いながら、一方で世界の平和を願う。その姿勢が、そもそも間違っているのです。

国と国もぶつかれば、いざこざから戦争になる。現にウクライナとロシア、イスラエルとパレスチナ……いろいろなところで人々が争っているではありませんか。宗教を信じながら、その宗教同士が衝突している。いったい、神はどこにいるのかと思います。

本当は、「平和」という言葉を用いない世にすることが願いです。それは、戦争や無残な殺し合いがあってこそ意味を持つものですから。「平和」なんて言葉を必要としない世の中にしていかなければならない。そう思いませんか。

ナチスが台頭してきた1932年、アインシュタインはフロイトへの手紙にこう書きました。「どうして人間は争うのか。なぜ、戦争というものは終わらないのか」と。それに対してフロイトは「人間とは、我の強いものだ。それに欲が付いて『我欲』になる。自分だけがよい思いをするために善人面をする。そして善人面をするということ自体が人間同士の争いを生むのだ」。そんな返事をしていたと記憶しています。

それを読んで思いました。人間は善人ぶっているけれど、実は悪人なのだと。どうでしょう。違いますか?

その証拠というわけではありませんが、私は、これまで数多くの講演でこんな質問をしてきました。「皆さん、真実に生きていますか。これまで一度も嘘をついたことのない人は、手を挙げてください」。自信をもって手を挙げた人は、世界中で、ただ一人。バチカンの司祭さんだけでした。

その司祭は、こうおっしゃった。「私たちは毎日、懺悔をしています。懺悔によって、自分が人間として生きる価値があるかどうかを問うているのです。そして、自分に少しでも生きる価値があるのなら、他の人に何をしてあげることができるのか。手を差し伸べることによって、何ができるのかを考えています」。

すばらしい言葉です。まったくその通りだと思いました。本当の平和は、このような心から生まれて来るのです。しかし今、世界中の宗教にかかわる人たちが、この司祭のように生きておられるかといえば、わからないと言わざるをえません。

厳しく育てられた子ども時代

私は、101年前の1923年4月、この千家に嫡男として生まれました。5人きょうだいの真ん中。姉が2人に弟が2人。待望の男児でしたから、「これで十五代ができた」と祖父母はたいそう喜んだそうです。

家元を継ぐ者として、それはもう厳しく鍛えられました。弟たちと比べて「私だけ、どうして」と、子ども心にも疑問に思うことばかり。言葉づかいや挨拶はもちろん、生活のあらゆることを主に母から細かくしつけられたのです。ときには反発したくもなりますよ。見るもの、聞くもの、すべてがお茶、お茶ですから。

まわりの大人たちも機会を見つけては、「これが楽焼のお茶碗です」などと丁寧に教えてくれるのですが、幼い自分にはうるさく感じられて。今になって思えば、すべてが私のためであり、役に立つことばかりなのですけどね。

もちろん、その厳しさには理由がありました。私ども千家は、千利休以来、明治ご維新まで武門として禄をいただきながら、一わんのお茶によって各藩に仕えてきた家。つまり、茶家であるとともに武家でもあったのです。

祖父母は明治の生まれでしたから、当時は今より武家社会の伝統が色濃く残っていました。嫡男の私が武家と茶家の作法をどちらも極めなければならないのは、この家に生まれた者として当たり前のこと。

小学生の頃には、剣道の師範を家に招き、剣術を教わりました。厳しくつらい稽古でしたが、そのおかげで飽きもせず、冷めもせず、文武両道に励み続ける強靭な体力と精神力が身についていったように思います。

乗馬もやらされました。あれは、8歳のときでしたか。怖がる私を父がひょいと抱き上げて乗せてくれたのですが、もう嫌で嫌で。ところが、渋々続けているうちにだんだんと馬のすばらしさがわかってきて、いつしかすっかりのめり込んでいました。

今も、日本馬術連盟の会長とアジア馬術連盟の名誉会長を務めていますから、もう90年以上も馬と歩んできたことになります。戦後は、障害馬術の選手として国体に2度出場し、オリンピック代表候補にもなりました。私にとって馬は、何物にも代えがたい大切な人生のパートナーです。

馬と重ねてきた歳月のうちには、苦い思い出もないわけではありません。もっともつらかったのは、太平洋戦争が始まり、馬が戦地に徴用されていったとき。私の馬も連れていかれ、遠い中国北部の地で戦死しました。忘れもしません。いい馬でした。

学徒動員で同志社から海軍へ

進学といえば、当時の男子は中学校から旧制高等学校(現在の大学1、2年の教養課程に相当)に進み、そこから大学へ行くのが一般的でした。私もそのつもりで勉強していたら、ある日、父に呼び出され「同志社大学に行きなさい」と。「どうしてですか。うちは禅宗であり、神道でしょう。それがなんでキリスト教の学校に行くのですか。絶対に嫌です!」。ここまで強く反発したのは初めてのことでした。

すると父が「そうではないのだ」と静かに語り始めたのです。「新島八重さんを知っているだろう。同志社大学の創始者・新島襄(じょう)先生の奥さまだ。この方があなたのおじいさまである十三代の圓能斎(えんのうさい)に入門されて優れた茶人となり、茶道を女性の教養として学校教育に取り入れてくださった。今の裏千家の発展の礎を作ってくださったのだ」と。

さらに続けて、「私も同志社に行ったおかげで英語を身につけられた。これからは、世の中が大きく変わっていくだろう。何よりまず、英語を勉強しとかなあかん」。そう語る父は確かに英語が堪能だったのです。

ここまで言われると納得するしかありません。1941年、同志社に進学。渋々でしたが、実際に通ってみるとこれが、すばらしかった。キリスト教の学校ですから、朝はチャペルで讃美歌を歌い、聖書を読んで、牧師の説教を聞く。まったく縁のなかったキリスト教の世界に触れ、「こんな宗教なのか」と少しずつ理解が深まりました。

何よりすばらしかったのが、英語教育です。先生方の多くは、アメリカン・ボード(北米最初の海外伝道組織)から派遣されたアメリカ人。入学した年の冬に太平洋戦争が始まり、皆さん、帰還船で帰ってしまわれましたが、残った先生方が英語で授業をしてくださったのです。

1943年、海軍入隊時の大宗匠。旭日旗や日の丸を掲げた裏千家の兜門前で母とともに(写真提供:裏千家)

クラスには、当時の朝鮮、満洲(現・中国東北部)、台湾出身の学生やアメリカ人2世などさまざまな同級生がいました。あのとき、もし同志社に行っていなければ、私の生きる世界はずっと小さいままだったでしょう。父の勧めは正しかったのです。

ところが1943年、私が大学2年生になったとき、事態が急変しました。戦況の悪化にともない、突如として大学の文系学生の徴兵猶予が取り消されたのです。徴兵猶予とは、大学を卒業するまで徴兵を延期してもらえる制度のこと。「うわー、参ったなあ」と正直、思いました。

しかし、軍役は義務であり責任です。逃れるわけにはいきません。その年の9月に徴兵検査。人より体が大きく、馬術や剣道で鍛えてきた私は、当然ながら一発合格です。

検査の後、「君は、陸軍と海軍、どちらに行きたい?」と聞かれ、「海軍へ行きます!」と答えました。面接官は、「陸軍もいいぞ」と言いながら書類に目を通し、「あ、君は水上機の訓練をしていたのか」と。

その頃、私は琵琶湖畔の水上機乗員訓練所に通い、単独飛行ができるようになっていたのです。おそらくそれが決め手になったのでしょう。京都府の海軍舞鶴海兵団への入団が決まりました。

<後編につづく

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