ウクライナ写真家、被写体は服飾から兵士に…前線で1万枚

(写真:読売新聞)

 ロシアがウクライナに侵略してから、もうすぐ1年となる。侵略前、ファッション誌を活動の場としてきた女性写真家の被写体は、この間に兵士へと変わった。前線で撮りためた写真は1万枚超。昨年末に来た日本で、自身がファインダー越しに見た現地の実態を伝える決意だ。(米山理紗)

■「実態伝えたい」日本で展示模索

 首都キーウ出身のベラ・ブランシュさん。写真家として15年以上のキャリアを持ち、ファッション誌以外にアート作品なども手がけ、実績を重ねてきた。

 昨年2月24日の夜はキーウの自宅にいた。ミサイル攻撃の音を聞き、すぐに愛猫を抱いて地下シェルターに逃げた。最初、恐怖に震えた市民はすぐに銃を持って戦線に加わるなど、立ち上がった。「自分には何ができるのか」と自問し、「私は写真家。写真で世界にこの戦争を伝える」という答えにたどりついた。ウクライナ軍の撮影許可を受け、カメラを手に激戦地へと向かった。

 最初に足を踏み入れたのはキーウ近郊の街だ。侵略直後、首都陥落を狙ったロシア軍の占拠から解放されたばかりのブチャでは、女性や子どもを含む数百人の遺体が集団墓地に埋められていた。破壊された高速道路のそばには手足を切断され、目をえぐられた遺体もあった。ガソリンスタンドには、頭を撃たれたドライバーの血で車内が赤く染まった車が放置され、ロシアを示す「V」の血文字が残されていた。

 1日撮影して自宅に戻ると、身体には昼間見た遺体や焼け焦げたがれきのにおいが染みついていた。

        ◆

 5月からは激戦地の東部ドンバス地方(ドネツク州、ルハンスク州)に赴いた。

 兵士たちは、ロシア側と交戦する最前線を「0」と呼んでいた。そこでは、「プシュプシュ」と乾いた銃声が響き、塹壕(ざんごう)の中で砲弾の爆発音を何度も聞いた。行動を共にした部隊の兵士たちは10~60歳代。父親と一緒に戦う18歳の少年もいた。

 「今日が人生最後の日になるかもしれない」。そう覚悟して従軍したベラさんだったが、「彼らのそばにいれば、どんな弾にも当たらない」と感じていたという。兵士たちの士気は高く、弱音を吐く場面を一度も見ることはなかった。「勝利を信じて、みんなが立ち向かっていた」

 ドンバスでは医療拠点にも密着した。前線から到着する車のフロントガラスに、数字の札が掲げられている。「300」は負傷者、「200」は死者の搬送を意味していた。

 ある日、最前線の「0」に向かう途中、「200」の表示がある車とすれ違った。民間人らの遺体が山積みになった荷台を見て息が苦しくなった。「どうか『200』でありませんように」。車を見るたび、そう祈った。

 拠点には米国やイタリアなどから駆け付けた医療者に交じり、アジア系の男性もいた。がれきに埋もれていた高齢女性を助け出し、運び込んでいた。男性は撮影や名前を明かすことを拒んだが、「日本人だ」とだけ教えてくれた。

 写真の代わりに彼の姿を目に焼き付けたベラさん。「遠くの島国から来て、名声を求めずに人々を助ける姿に心を打たれた。いつか日本の人に伝えたいと思っていた」と話す。

◇ 前線での写真撮影を続けながら、欧州各国や米国で写真展を開催し、ロシアの蛮行と戦争の悲惨さを訴えてきた。

 来日は昨年12月。ホテルで目覚めると、「ウクライナのために私は今日、何をすべきだろう」と考える。そして外に出て、写真を撮る。

 日本は安全で美しい国だ。砂浜ではしゃぐ若者や手をつないで歩く親子の姿を見ると、平和だったかつてのウクライナの風景が思い浮かぶ。

 ベラさんは「日本の支援に感謝している」と語り、「この戦争は日本にとって、どこか遠くの国の話ではない」と訴える。ロシアとの間で北方領土問題を抱えているからだ。

 「戦場で何が起きているのか。実際にこの目で見てきたことを、少しでも多くの日本人に知ってほしい」。展示会の開催や写真集の出版を目標に、準備を進めている。

ジャンルで探す