坂本龍馬像を作った男の人生…戦争で銅像が次々撤去される悲運も/5月27日の話

 

 1928年(昭和3年)5月27日、高知県桂浜で、坂本龍馬像の除幕式がおこなわれた。

 

 龍馬像を制作したのは、本山白雲という彫刻家だ。日本の銅像制作の第一人者とされており、明治維新以降の有力政治家ほぼすべての銅像を手掛けている。

 

 白雲の生まれ故郷・高知県宿毛市にある宿毛歴史館の担当者に話を聞いた。

 

 

「1871年(明治4年)に生まれた白雲は、はじめ地元の学校で代用教員などをしていました。しかし、美術への志を捨てきれずに上京し、著名な彫刻家である高村光雲に師事します。『白雲』という名も光雲からいただいたものです。

 

 東京美術学校(現・東京芸術大)を卒業し、同校で講師を務めます。ある日、上京時に助言をもらった同郷の政治家・岩村通俊から、明治の元勲の姿を後世に伝える計画を耳にします。

 

 岩村から偉人像の制作をすすめられた白雲は強く感激し、学校をやめて肖像彫刻家の道を歩み始めるのです」

 

 1899年、美術学校の懸賞に後藤象二郎の像で入選。この頃から、銅像の需要が増えていった。以降、精力的に制作を続け、板垣退助像や東郷元帥胸像など、数多くの名士の像を生み出した。国会議事堂・参院側の前庭にある伊藤博文像も、白雲の作品である。

 

「高知県の桂浜に坂本龍馬像ができたのは1928年のことです。高知県出身の青年たちによって計画が始まり、有志が無銭旅行をして賛同者を集めました。そんな苦労が実って募金が集まり、白雲に依頼して龍馬像をつくることになったのです。

 

 制作は東京で進められ、堂々たる龍馬像が完成しました。白雲が全力を注いで制作した桂浜の龍馬像は、太平洋のはるか彼方を見つめ、いまも全国の龍馬ファンに愛されています」(担当者)

 

 ただし、白雲の作品で現存するものは少ない。多くが戦時中の金属供出で撤去されてしまったからだ。美術展に参加することもなく、ひたすら技術を高め、不朽の名作を残すことを使命としていた白雲にとって、それはどれほどの苦悩だったか。

 

 宿毛歴史館の担当者によると、白雲の息子・近思が、随筆に当時の白雲の様子を記しているという。

 

《忘れもしない、昭和19年暮れの夜おそく、断続する空襲の中をくぐって、アトリエの前庭まできた私は、一瞬立ちすくんだ。父は、すでにスクラップにされてしまった明治の元勲の原型を1体1体、淡々として素手をもって叩き割っている。そのかたわらで母は、しずかに合掌していた》

 

 坂本龍馬像が金属供出を免れたのは、龍馬が海軍の創始者だったからとする説がある。ただ、白雲の故郷・高知には、龍馬像以外にも多くの作品が残っていることから、地元の人が強い意志で守ろうとしたのかもしれない。

 

 白雲は、1951年秋に原敬首相の像を完成させると、年が明けてまもなく82歳で静かに亡くなった。生涯で制作した銅像は、300体以上だとされている。

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