亡き母ゆかりの地巡礼 尼崎の49歳男性、妻と子と

石屋川公園の桜に手を合わせる藤原雄大さん(右)と長女麦さん=神戸市灘区で2019年1月14日、山田尚弘撮影

 阪神大震災で犠牲になった母親ゆかりの地を毎年1月に巡る兵庫県尼崎市の会社員、藤原雄大(たかひろ)さん(49)が14日、小学2年の長女麦さん(8)、妻香さん(47)と尼崎から神戸まで6カ所を回った。最終地点は神戸市中央区の東遊園地にある「慰霊と復興のモニュメント」。昨年12月、犠牲者として新たに銘板へ刻まれた「岡西ヨリ子」の名を一緒に見つめた。56歳で突然終えた人生だった。

 「いま生きているということ。泣けるということ。笑えるということ」。薄明かりの差すモニュメントの地下空間。香さんと麦さんが、谷川俊太郎さんの詩「生きる」を読み上げた。後ろにはハンカチで目頭を押さえる藤原さんの姿があった。

 ヨリ子さんは30代のころ、病気で右目を失明。神戸市内で新聞販売店を家族経営していた時は、人なつっこい性格もあり読者が少ない地域で約500部を増やした。別の販売店主に「お母さんを知らん人はおらんで」と言われ、誇らしかった。

 震災当日。兵庫県芦屋市の2階建ての文化住宅1階で、母と弟と3人で寝ていた。住宅は全壊したが、藤原さんと弟は倒れたはりでできた隙間(すきま)のおかげで外へ逃れた。「おかーん」と声をからしたが、返事はなかった。

 前日の16日未明、藤原さんは友人の結婚式から帰宅。引き出物の中身を聞かれ「はよ寝や」とぶっきらぼうに返した。これが最後の会話。今も悔やんでいる。家族を束ねていたヨリ子さんが亡くなり、震災後は生活も苦しく一家は離散。藤原さんは2008年に香さんと結婚し、生まれた麦さんは農作業の麦踏みから名付けた。自身が震災を乗り越えたように「踏まれても強く生きて」との願いからだった。

 震災翌年から毎年1月、亡くなった母や友に会いに行くつもりで墓や家の跡、慰霊碑を巡る。数年前に神戸市外の犠牲者も銘板に追加できると知り「母が生きていた証しを残したい」と申し込んだ。

 この日、慰霊碑に手を合わせる藤原さんの隣で、麦さんは手を合わせつつ何度も父親の顔を見上げた。藤原さんは家庭を持ってから平和な日常の大切さが身にしみるようになった。「いつか『あの日』のことを聞かれたら答えられるよう、恥じない生き方をしたい」。改めてそう誓った。【木原真希、反橋希美】

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