葛城ユキさん 死期悟り自ら救急車呼んで段取りを…友人歌手が絶賛する理想の最期

「ユキさんは信念のブレないカッコいい女性でした。闘病中も『私は歌うために生まれてきた。だから命の限りステージに立ち続けたい』と、ずっと言っていました」

6月27日に腹膜がんで亡くなった歌手の葛城ユキさん(享年73)。“最後の勇姿”となったコンサートで、同じステージに立っていた友人のロザンナ(72)はそう力強く語ってくれた。

葛城さんは高校時代、バレーボールのエースアタッカーとして国体とインターハイに2回出場。卒業後、実業団に入るも、セッターへの転向を拒否して退社し、音楽の道を目指した。’74年に歌手デビュー後、’83年に『ボヘミアン』が40万枚以上を売り上げる大ヒットを記録した。以来、“ロックの女王”として熱い音楽魂と飾らない人柄で後輩たちに慕われた。

「私生活をほとんど明かさない方でしたが、20代後半で一般男性と結婚するも数年後に離婚。その後はずっと独り身を貫いていました。近年も積極的にコンサートを行っていましたが、昨年4月にステージ4の腹膜がんを公表。同年5月からは活動を休止し、治療に専念していました」(音楽関係者)

今年5月、葛城さんは千葉県内で行われた夢グループ主催のコンサートで約1年ぶりにステージ復帰を果たしていた。

「葛城さんは車いす姿で登場。ベット・ミドラーの『ローズ』を歌い、『水を得た魚のよう。歌えることは幸せです』と挨拶しました。翌月の17日が最後のステージとなりました」(前出・音楽関係者)

ファンや仲間を前に、最後まで歌い切った葛城さん。実は“人生の幕引き”にも一抹の後悔がないようにしていたという。

「ラストステージではファンや共演者に『私の人生は感謝、感謝です』と伝えていました。その後、『数日しか生きることができない』と悟ったといい、恩師らに電話で別れの挨拶をしていったそうです。さらに亡くなる当日の朝には、親しい関係者に『救急車を呼びました。今までありがとうございました』とお礼の言葉も述べたといいます。

葛城さんは喪主を務めたお姉さんやマネージャーなど、親しい人たちに見守られながら息を引き取りました。声を振り絞りながら『ありがとう』としきりに伝えていたそうです」(前出・音楽関係者)

ロザンナと同様、“最後のステージ”に立っていた友人の桑江知子(62)は言う。

「1年間、おそらく本当に辛い闘病生活を送っていたと思うのですが、ユキさんは『生きるために私は耐えていたわけじゃない。どうしてもステージに立つために頑張っているんだ』とよく口にされていました。

ユキさんは最後のコンサートでは、お世話になった方々に『お体を大事にしてくださいね』って言葉も残されていたそうです。私は『いつまでもその声で歌ってね!』と言われました。『これからもユキさんの代わりに歌うからね』と返したら『ありがとう!』って……」

■「自分の人生に悔いはない。幸せでした」

コンサートは昼と夜の2部制で、葛城さんは体調を考慮して当初昼の部にだけ参加する予定だった。だが、「もう一度ステージに上がりたい」と急きょ夜の部にも登場し、トークコーナーだけ参加した。

「そのとき『自分の人生に悔いはない。幸せでした!』と言い切ってくれたんです。その言葉に、周りは本当に救われましたね。ユキさんは、ステージではロックをガンガン歌うカッコいい女性でした。いっぽう、楽屋では別人。いつでも優しくてチャーミングな方でした」(桑江)

同じく友人の石井明美(56)も、こんなエピソードを明かす。

「『足は開いていないほうが絶対に格好いいから』と、ステージの立ち方など、プロとしてあるべき姿をよく教えていただきました。一方で、ユキさんはみんなと共演するとき、朝早くに起きて、おすしを振る舞ってくれたんです。夜中にお米をといでいたんですって。尋常じゃない量のゆで卵を用意してくれたり……。唯一無二の声を持ったロッカーでありながら、かつ常に周囲を温かい雰囲気にしてくれる方でしたね」

ロザンナは改めてこう振り返る。

「ユキさんはかわいいんだけど、すごく強くて。でも弱さも備えていて。すべてを持った人でした。全部自分で段取りをつけて去っていくなんて。なかなか、そうできる人はいません。誰に対しても思いやりの塊のような人でした」

ロザンナ、桑江、石井は密葬で、葛城さんへの感謝を示すべくメッセージカードを棺に納めたという。1年2カ月もの闘病生活を経て、動じることなく天へ飛び立った葛城さん。そのカーテンコールに、万雷の拍手が鳴りやまないーー。

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