32歳、飲み屋で歌って生計を立てる男の大望

“流しの四元”こと、四元壯さん。5社を渡り歩いた末に流しという本職を得た(写真:村田らむ)
これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむと古田雄介が神髄を紡ぐ連載の第34回。

“流し”を始めて3年目

新宿駅西口直結のビル地下3階にできたばかりの新宿名店横丁。昭和風のレトロな飲み屋街をイメージしたフロアに肉専門店が5軒並ぶ。この店々をアコースティックギターと共に行き来しているのが、四元壯(よつもと・しょう)さん(32)だ。“流し”を始めて3年目。流しだけで生計を立てるようになって1年半が経つ。ここと東京・立川の旭日食肉横丁を拠点に、連日生歌を披露している。

客に渡す曲目リストには洋邦男女合わせて100曲以上が並ぶ。演奏料は決めていないが、目安として1曲500円と説明することが多い。歌い方にクセがなく、フォークもロックもよく通る声で歌いこなす。声量は場の状況に合わせて、「リスエストしてくれたお客さん中心にちょうど無理なく届くように」と意識しているという。

流す時間帯はだいたい19時ごろから24時ごろまで。1日で成果が3000円しかいかないこともあれば、2万円を超えることもある。大まかな目標値は1万円だが、変動が激しい稼業なので、日々の結果にいちいち一喜一憂しない。

そんな四元さん、2年前は世界的な掃除機メーカーの国内代理店に勤める正社員だった。その頃に結婚した奥さんといまも2人で暮らしている。リストラに遭ったわけじゃない。自ら進路を選んで現在がある。傍から見るとずいぶん大胆なジョブチェンジのように思えるが、四元さんのこれまでの生い立ちに触れると、むしろ、なるべくしてなったように感じられる。

四元さんが生まれたのは1986年3月の鹿児島県。まもなくして埼玉県朝霞市に移り、実業家の父と専業主婦の母、2つ上の姉がいる家庭で育つ。4人家族だが、父は仕事の付き合いもあって家を空けることが多く、たまに帰ってきても酩酊してばかりいた。それが原因で両親がけんかしている姿が目に焼き付いている。一方で、酔った父がギターをつま弾いて歌ってくれた楽しい記憶も残っている。たまに行く家族旅行では皆で旅館のカラオケに興じるのが恒例だった。

「音楽好きになったのは確実に父親の影響です」と振り返る。

小学校を卒業する際、卒業証書を受け取るときに将来の夢を声に出す決まりがあり、そこで「将来は音楽をやっています」と宣言したことを覚えている。折しも1990年代後半。ヒットチャートを何曲ものミリオンヒットが彩り、音楽業界に夢があふれていた時代だ。

実際に弦に触れるようになったのは中学生になってから。中学は両親の意向もあって東京新宿にある中高一貫の私立校に通うことになったが、音楽でつるむのは地元の友達だった。学校から帰るとギターを持って地元を流れる黒目川の土手へ行き、手元が見えなくなるまで仲間と練習した。やがて友人の一人とアコースティックデュオを組んで駅前でも演奏するようになり、コピーだけでなくオリジナル曲を披露するようにもなった。

厳しい現実と反抗期

両親が離婚したのはその頃だ。

「姉と一緒にリビングに呼ばれて、その場でどっちについていくのか決めなさいと言われました。夫婦げんかは慣れていましたけど、離婚までは想像していなかったので突然という感じでしたね」

2人とも母親につき、父親だけが家からいなくなった。その後も父親とは定期的に会ってはいるが、家庭が壊れたショックは小さくなかったという。

母親は生活のために仕事を始めた。そのおかげもあって目に見えて生活水準が落ちるような経験はなかったが、金策に苦労している様子はそこはかとなく伝わってきた。おカネの大切さが身にしみた初めての体験だったかもしれない。

家庭も暮らしも決して盤石なものではない。自分ではどうしようもない理由で簡単に壊れる。そんな厳しい現実と反抗期が重なって、四元少年は学校を中退してしまう。クラスの同級生と馬が合わないわけではなかったが、とにかく地元で過ごしたかった。学校をサボりまくり、あえて出席日数不足になることで留年を余儀なくさせて、そのまま退学に向かうように強引に持っていった。高校1年、16歳のときだ。

それからはファミレスと建設現場の清掃業のバイト、そして音楽だけの日々。何の保証もないが自信だけは満ち満ちていた。演奏と歌唱力は仲間のなかで随一だったし、作曲できるのも自分1人だった。バンドは組んでいなかったので、ソロで演奏してデモテープをレコード会社やライブハウスに持ち込み、メジャーへの扉が開くのを待った。

不採用だと返事は来ない世界。フリーターになって1年半経ったが、目立ったリアクションは何もなかった。が、「自分は絶対に有名になれるんだっていう自信は揺るぎませんでしたね。無視されても、向こうに見る目がないんだよと本気で思っていました(笑)」。

18歳になった頃に夜間高校に入学しようと思い立ったのも軽い気持ちからだった。「高校くらいは出ておいたほうがいいよ」という助言はこれまでさんざん聞かされてきたが、あるとき「高校卒業の資格くらいは持っておいたほうがいいよ」という言い方をされて、ふと「そうだな」と思えたのがきっかけだったという。四年制の夜間学校なら、いまの音楽中心の生活を続けながら通えそうだし、それで高校卒業資格が得られるなら悪くないと思えた。

大学受験できるルートを切り開いてくれた教師たち

せっかく通うなら無遅刻無欠席でいこうと自分を律して過ごしていると、これまでの人生ではありえないほど学業の成績が上がった。テストでノート持ち込み可だったこともあり、あらゆる科目で100点を連発。ヤンキーからはねたまれて体育館裏に呼び出されたりもしたが、それ以上に目にかけてくれたのが教師たちだった。「この環境だともったいないから大学に行ったほうがいい」と、卒業を待たずに大学受験できるルートを切り開いてくれたという。

夜間高校に2年間通ったうえで高認(※高等学校卒業程度認定試験。前身は大検)で数科目取得すれば高卒認定が取得できる特殊な方法があり、複雑な手続きを経てそのレールに乗せてくれた。四元さんは夜間高校3年次に休学し、高認取得と同時に予備校に通い、ストレートで学習院大学に合格する。21歳になっていた。

中学から男子校で、夜間高校も男子の比率が圧倒的に多かった。その反動から学生時代は大いに遊んだと笑う(写真:村田らむ)

キャンパスライフが始まると、受験までの8カ月間触らずにいたギターを解禁して音楽活動を再開。ライブハウスを中心に活動するようになったが、10代の頃のような向き合い方は少し難しくなっていた。

「自分の才能に対する自信は揺らいでいませんでしたけど、多少世間を知ったところがあって、状況的に音楽一本でやっていくのはまだ無理だなとも思うようになっていました」

音楽をあきらめたわけではないが、卒業したらまずは社会を知ろう。そう腹に決めて就活し、大手ホテルから内定をもらった。

就職して配属されたのは軽井沢。寮は同期との2人部屋で、プライベートな空間に乏しかったが、「いかに会社をよくしていくか」と毎日のように語り合うのが楽しかった。ホテルマンとしてよりよいサービスを提供していきたい。若い自分たちだからこそできることはたくさんあるはずだ――。

新卒の社会人らしく職務に燃える一方で、音楽の練習も手を抜かなかった。出勤する前は寮の近くの森林の中で1時間ほどギターの練習をして、シフトによっては終業後もまた練習する。ギターに触れない期間が長引くと、腕がなまるし演奏するまでの腰も重くなる。受験勉強時期や就職後しばらくの缶詰期間の経験から、習慣的に弾いていないと音楽をやるまでの摩擦係数が増えてしまう嫌な感じは身にしみてわかっていた。

今はホテルマンとして燃えている。けれど、いずれは音楽で食べていく。

どちらも真剣に向き合っているが、いずれはどちらかをとらなければならなくなる。そんな矛盾をはらんだ生活とついに折り合いがつかなくなったのは就職して3年目に入ってすぐのことだった。2012年6月にホテルを去ることになる。

「今思えば若気の至りなんですけど、旧態依然として僕たちの意見を受け入れてくれない上層部への不満が募っていたのが大きかったです。あと、東日本大震災以降に自分自身のことをいろいろ考えるようになったのも少なからず関係していますね」

今ある仕事にやりがいを感じてはいても、いつか総支配人になって理想のホテルを実現するような自分の姿は浮かばない。短期的な熱中と長期的な展望が結び付かない感じがつねにあった。ならここにいても仕方がない。だから辞めた。ただ、音楽で食べていくというのも学生時代と同じく「まだ無理だな」だった。

自分が疫病神なんじゃないかと落ち込む日々

次の就職先は間髪入れずに見つかったが、ここから1年の間に4社を転がることになる。

最初のIT系ベンチャーには新規事業の営業職として雇われたが、その新規事業が企業買収の失敗で頓挫。その影響で2カ月後には会社自体が潰れてしまった。仕方なく学生時代にバイトしていた銀座の鉄板焼き店に頼み込んで働かせてもらったが、経営者間の不和が原因でこちらも2カ月で閉店。その後、交通量調査のバイトで食いつないでいると、友人が就職先の映像制作会社に誘ってくれて、都合4社目の入社を果たす。

そこでの下働きは過酷を極めた。日常的に怒号が飛び交う職場で、下っ端は上司の朝令暮改の繰り返しで仕事が滞っては責められるのが当たり前の世界。体系的に仕事を教えてもらえる環境は望むべくもなく、ただただ心身を疲弊させていった。

「2012年は、自分が疫病神なんじゃないかと本気で思うくらい落ち込んでいました。ITベンチャーに入社した頃までは社会人としても自信満々だったんですよ。それがまったく通用しなくて、映像制作会社では毎日のように『お前はクソだ』と言われて、そうだなあ……なんて思ったりして」

それでも音楽だけは続けていた。続けてはいたが、日々の状態と連動してミュージシャンとしての自信も半ばなくしてしまっていた。もはや、アンデンティティをつなぎ止める細い糸くらいの状態になっていたのかもしれない。

冒頭で触れた、掃除機メーカーの国内代理店から声をかけられたのはこの時期だ。大学時代に所属していた部活のOBが経営している会社で、たまたまOB会に顔を出したときに気に入ってもらえたのだという。天の恵みとばかりに、半年間籍を置いた映像制作会社からすぐさま転職した。

新天地で配属されたのは取り扱う掃除機の宣伝部署だ。広告を作ったり、メディアと組んで広報的なコンテンツを作ったりもする。職場の環境はずいぶんとよくなった。胸ぐらをつかんで罵詈雑言を浴びせてくるような上司はもういない。ただ、緊張感はそれなりにある職場で、仕事に関しては厳しい先輩が多かった。少なくとも、傷心の四元さんをそっと包んでくれるような雰囲気はなかった。やはり自力で自信を取り戻すしかない。

「自分なりに必死にやりました。おカネも欲しかったですし、なるべく早く独り立ちして、広告の企画とか一人で全部回せるくらいになりたいなと。本もたくさん読んで論理的な思考を身に付けてと……。でも、どうにも結果が出なかったですね」

籍を入れたのは、そんな模索のただ中のことだった。フリーランスライターをしている年上の女性で、ライター集団の忘年会に誘われたときに知り合ったという。自然とひかれて付き合うようになったが、出会った当時は自分が結婚するとは思ってもみなかった。

「母親が離婚したあとにおカネで苦労しているのを知っているので、結婚となると金銭面の不安が先に立つんですよ。僕は貯金がないばかりか大学の奨学金返済も途中という状態なので、まあ結婚は一生無理だなと思っていました。ところが彼女は自営していて、一緒になった後も共働きでやっていけばいいよと言ってくれて。音楽を続けていくことにもすごく理解してくれたんです。それで、この人とだったらいいなと心から思えたんですよ」

「まだ無理だな」なんて言っていたら一生が終わる

晴れて2015年に結婚。そして、会社勤めを続けながら、四元さんの音楽活動はついに本格化する。「まだ無理だな」なんて言っていたら一生が終わる感触があった。

プロとして活動するためのバンドを組もう。これまでも何度かバンドを組んだことがあったが、趣味の範疇に収まっていた。今度は本気でメジャーを目指す。以前からYouTubeに演奏動画をアップしており、そのコメントのやり取りで知り合ったピアノ奏者の女性と、同じくYouTubeで「たたいてみました」動画のプレーにほれ込んだ男性ドラマーに声をかけ、早速レコーディングスタジオに入った。ライブハウスにも積極的に出て、自主制作CDの販促にも精を出した。勤務時間以外のほとんどを音楽に注ぎ込んだといっていい。奥さんも応援してくれていて、後ろめたい思いは何もなかった。

この頃から連日飲み屋街に入り浸るようになる。やけになったわけじゃない。音楽業界で力を持っている人の行きつけの店に気に入ってもらって、自分達のCDを置いてもらうためだ。続けていると、いくつか思いがけないリアクションがもらえるようになった。「本気で音楽やるなら、流しをやっている人がいるから会ってみれば?」という提案もそのうちのひとつだ。

それまで流しという職業を意識したことはなかった。ただ、この界隈で流しとして活動したら、業界人に顔を覚えてもらってバンドとしてのメジャーへの道が開けるかもしれない。期待を胸に流しの先達に会いに行くと、ありがたいことに「君もやってみない?」と誘われた。そして1週間後、四元さんは流しとして新宿の街に立っていた。

初日はとてつもなく緊張して吐きそうになったのを覚えている。まったく声がかからないかもしれないし、周りから迷惑がられるかもしれない。飲み屋街で求められそうなレパートリーはどうにか頑張って30曲程度しかなかった。「なんだアレ弾けねえのかよ」と失望されたらどうしよう……。現場についてギターをセットし、歌い始めるまでに30分かかった。

本領を発揮すればこっちのもの

しかしいざ歌い始めると、目を細めて聴きいってくれる人や、うれしそうな顔で手拍子を打ってくれる人が多かった。向こうのテーブルから面白がって顔をのぞかせる人も見える。演奏を終えると拍手をもらえた。なかには終始ピンとこない感じのお客もいたが、ギターのヘッドに挟んだ千円札は確実に増えていった。まがりなりにも流しとしての形は最初からできていたといっていい。何しろ弾き語りのキャリアは20年近くある。本領を発揮すればこっちのものだ。

別日に撮影した流し中の四元さん。ギターのヘッドに千円札を挟んでいる(写真:筆者撮影)

それからは残業のない日は飲み屋街に流しに出掛けるのが日課となった。正直なところ、バンドの宣伝にはなりそうもない。飲み屋のお客さんは愛着のある曲を生演奏で聴くからおカネを払うのであって、バンドのオリジナル曲に関心を持ってくれることは本当にまれだから。けれど、音楽家としての四元さんの自信を少しずつ回復してくれた。最初は週に1~2回だったがしだいに増えて週3~4回立つことも珍しくなくなった。

母親には退職を事後報告した。「バカね。奥さんがかわいそう。みたいなことを言われました」という(写真:村田らむ)

そんな頃に会社が繁忙期に入って、1カ月間一度も流しに行けない月があり、吹っ切れる。

「このままうだつが上がらずに鬱々とするんだったら、遠慮せずに好きなことをやろう。最悪うまくいかなかったら、そのとき考えればいいやってなりました」

毎月の流しの売り上げをみると、専業で続ければ何とか食べられるくらいの収入にはなりそうだ。バンドは休止状態になってしまったが、もはやバンドの販促のためという名目はない。純粋に流しとして後悔のないところまでやってみたい。奥さんに相談すると、真剣さを酌み取ってくれて首を縦に振ってくれた。すぐさま辞表を提出し、その2カ月後に退職する。2016年10月、30歳になっていた。

そして現在。流しの師匠の元からも離れ、完全にフリーランスの流しとして活動している。流しにも組合があり、所属していれば活動できる店舗や街が広がるが、ほかの流しとの折り合いを付けるなどの面倒ごとも増える。そこで完全無所属となり、自ら流しを受け入れてくれる飲み屋街を開拓する道を選んだ。2017年10月にオープンしたばかりの新宿名店横丁を拠点のひとつとしているのも、そうした事情からだ。名刺やSNSページ、公式サイトで出張流しも募集しており、最近はイベントで演奏する機会も増えてきたという。

手取りベースでいえば、前職と同じくらいには稼げている。ただ、昨年体調不良で声帯を痛めたときは丸々1カ月間休み、完全な無収入を味わいもした。

「やっぱり保証がないので、ものすごく不安になるときはありますよね。そういうときは不安の要素を一つひとつノートに書いて、それぞれ検証していって乗り越えるようにしています」

大きな会社に属していても安心はできなかったと思う

それでも精神状態は2012年に比べるとはるかにいいとか。また、同種の不安さは会社員時代もゼロではなかったと振り返る。

「いざ歌ってみたら反応が悪い人もやっぱりいます。でも最近は、それも相性の問題として割り切れるようになりました」という(写真:村田らむ)

「正直なところ、どれだけ大きな会社に属していても自分は安心できなかったと思うんですよ。本やメディアを通して入る情報からも終身雇用なんて望めそうにないですし、これまでの体験と照らし合わせても、ずっと安泰だと信じられないというか。

もし会社でしっかりと結果を残せていたら、その会社が倒産としたとしても、自分のスキルを生かして業界内を渡り歩くイメージが持てたと思うんですよ。けれど、僕には無理でした。そうなると先が見えなくて、安心なんてできません。会社に対しても自分に対しても」

そんな四元さんだが、「いつまで流しを続けるか?」という質問には、「できれば60歳までやりたい」と明言している。約30年後。ずいぶんロングスパンだが、少なくとも会社員を続けるよりも現実的な目標であることは確かだという。

四元壯のホームページのキャプチャー画面

「流しとして結果を残せる自信はどうやら持てているんですよ(笑)。もっと体調面に気をつけなくちゃいけないですし、将来キャッシュレス化したときや法的なところで課題が生まれたときもきちんと手を打たないとならないでしょうが、そこは向き合えるんじゃないかと思えるんです」

ただし、途中で流しを辞めることも想定してはいる。それは悪いルートばかりではなく、ミュージシャンとしてメジャーになる道も含んでいる。バンド活動は休止したが、現在も作曲活動を続けており、iTunesやYouTubeでの配信はコンスタントに続けている。

「流しの四元」と「ミュージシャンの四元」。今は別個の存在だが、いずれブレークして合流することを期待している。どちらが主流になるかはわからないけれど。

〔※撮影協力:大衆馬肉酒場 三村 新宿西口店(新宿名店横丁内)〕

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