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関ヶ原の戦い、「本当の勝者」は誰だったのか

関ヶ原古戦場には、馬防柵や陣旗などが再現されている(画像:PJ / PIXTA)
「関ヶ原の戦い」の勝者は、言うまでもなく徳川家康だ。
そして、彼の指揮の下、合戦の勝利に貢献したいわゆる「東軍」所属の大名たちは、その後の江戸幕府の政権下で原則として重用され、逆に敗者の「西軍」大名は「外様(とざま)」として蔑まれる。
しかし、こうした風潮の中で、勝者である「東軍」に匹敵、またはそれをしのぐ「真の勝利」を手にした西軍大名も存在した。
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本記事では、同書の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が、「関ヶ原、真の勝者」を解説する。

敗者、毛利家が抱えるフラストレーション

江戸時代の某年正月――。

新たな年を迎え祝賀ムードに包まれる長門国萩城(山口県萩市)の本丸御殿で、整然と居並ぶ家臣たちを前に、ひとりの家老が藩主に問いかけました。

「殿、徳川を討つ準備が整いました。いかがいたしますか」

一同に緊張が走る中、藩主はこう答えます。「いや、まだ時期尚早である」と。

これは、長州藩(山口県)における恒例となった年頭行事の一幕で、「関ヶ原の戦い」で敗北し、それまでの所領を大きく減封された毛利家は、その屈辱を決して忘れることがなかったというエピソードとして広く知られる俗説のひとつです。

「関ヶ原の戦い」では、敗北した西軍大名の大半が「改易(領地没収)」「減封(石高減少)」といった憂き目に遭う一方で、勝者となった東軍大名もその後の江戸幕府の下で、必ずしも「十分な待遇と安泰」を約束されたわけではありませんでした。

では、この戦いでの「最終的な真の勝者」はいったい誰だったのか。

少し見方を変えれば、実際の表面上の勝敗とは別に、あの「意外な大名」が浮かび上がります。

今回は、「関ヶ原の戦い」をテーマに、東軍のリーダー徳川家康をもしのぐ「本当の勝者」について解説します。

今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。

両軍合わせ2万5000挺!史上最大の銃撃戦

Q1. 「関ヶ原の戦い」とは何ですか?

慶長5(1600)年9月15日に美濃国関ヶ原(岐阜県関ケ原町)を主戦場に行われた、大規模な野戦です。

武蔵国江戸城主、徳川家康率いる東国を主体とする大名(東軍)と、近江国佐和山城主、石田三成率いる西国を主体とする大名(西軍)合わせて約16万(20万とも)の将兵と、総計2万5000挺ともいわれる鉄砲および大砲が配備され、激しい戦いを繰り広げました。

Q2. 戦いの原因は何ですか?

端的にいえば、豊臣秀吉死去に伴う「徳川家康と石田三成との政治の主導権争い」です。

これに、先の朝鮮出兵時に生じていた事務方官僚の三成と現地に出陣した武将たちとの軋轢などが絡み、日本中の大名を巻き込む一大決戦へと発展しました。

Q3. 戦いの行方は?

東西両軍の兵力はほぼ同じでしたが、両者の布陣については、石田三成の西軍が圧倒的に有利な形でした。

しかし、当日は徳川家康の謀略工作活動により東軍に寝返る大名が続出したため、西軍は崩壊し、戦いはわずか半日で決着がつきました。

ちなみに、「東軍」「西軍」の呼称は、戦いから約100年後に出版された軍記物が初見とされており、当時の人々にはそうした認識はなかったようです。

Q4. 敗れた石田三成はどうなりましたか?

関ヶ原からの逃亡中に捕縛され、京都の六条河原で処刑されました。

ほか、彼と共謀した罪により、上杉景勝、毛利輝元(いずれも豊臣政権下の五大老)にも厳しい処分が下されました。

石田三成(近江国佐和山 西軍主将)19万4000石 → 改易のうえ斬首
上杉景勝(陸奥国会津 西軍)120万石 → 出羽国米沢 30万石
毛利輝元(安芸国広島 西軍)112万石 → 長門国萩 29万8000石
Q5. では、勝者となった東軍大名への褒賞は?

大部分の大名が所領を加増されました。これは、多数の敗れた西軍大名が改易、減封により所領を失ったためです。

なかには、それまでの所領が数倍に大幅アップした大名もいました。通常では1回の合戦でこれほどの褒賞を得ることはまずなく、非常にまれなケースです。

所領はかなり増えたものの…

Q6. 大幅に加増された大名は、さぞかしうれしかったのでは?

もちろん、喜んだでしょう。しかし、新たな領地は元の所領地からも遠く、しかも地元事情にも希薄な土地勘もない「遠隔地」だったため、少なからず不安も抱いたはずです。

山内一豊 遠江国掛川(静岡) 6万8000石 → 土佐国浦戸(高知) 22万2000石
池田輝政 三河国吉田(愛知) 15万石 → 播磨国姫路(兵庫) 52万石
細川忠興 丹後国宮津(京都) 18万石 → 豊前国小倉(福岡) 39万9000石
Q7. 東軍大名は、江戸幕府での地位は安泰でしたか?

いいえ。まだ創設して間もない江戸幕府は「天下普請」の名の下、江戸をはじめとする各地の城郭整備や道路、河川工事への負担を大名に絶えず強いたほか、大名が1年おきに領国と江戸を行き来する「参勤交代」を課すなど、藩の経営はつねに厳しい状況でした。また、家中での不祥事等により「改易」となる事例も多く、決して安泰ではありませんでした。

福島正則 尾張国清洲(愛知) 20万石 → 安芸国広島(広島) 49万8000石 → 寛永元(1624)年、改易
小早川秀秋 筑前国名島(福岡) 35万7000石 → 備前国岡山(岡山) 51万石 → 慶長7(1602)年、改易
Q8. 西軍大名は「どんな末路」をたどったのですか?

基本的には領地没収のうえ、死罪や流罪、追放などの処罰を受けるか、大幅に所領を減らされました。江戸幕府では彼らを「外様」と呼び、幕閣の中枢からはるかに懸け離れた扱いでした。

しかし、なかにはこうした逆境にもめげず、さまざまな面から「勝者(東軍)を凌駕した旧西軍大名」も少なくありません。

合戦に負けても、今度はまったく異なる戦いで家康に勝利した大名、また、東軍大名以上の家格や権威を手にした大名がいました。

勝利の形はさまざま

【長寿で勝利】宇喜多秀家(1572~1655)
 備前国岡山(岡山)・西軍副将 57万4000石→改易

若くして豊臣秀吉に武勇を見込まれ、彼の養女(前田利家の娘)を娶(めと)った宇喜多秀家は、21歳で文禄の役の大将に任じられるなど、数々の戦場で手柄をあげ、秀吉から厚い信頼を受けていました。隣国の大大名毛利家との関係も深く、豊臣政権の中枢の1人でした。

「関ヶ原の戦い」でも、西軍最大の軍勢を率いて東軍の猛攻に一進一退の攻防を繰り広げますが、小早川秀秋の裏切りをきっかけに西軍は敗北し、宇喜多秀家は所領をすべて没収のうえ、伊豆八丈島(東京都八丈町)に配流されました。

しかし彼はその後、妻の実家である前田家などからの援助もあり、この地でおおむね健康に50余年に及ぶ長い流人生活を送り、4代将軍家綱の治世となる明暦元(1655)年に、「家康(75歳)を上回る84歳の天寿」を全うしました。

【家康の孫ゲット】鈴木重朝(雑賀孫市)(生没年不詳)
 紀伊国平井(和歌山)・西軍 1万石→改易

代々鉄砲の名手として知られ、石山合戦では織田信長を何度も撃退した雑賀(さいか)党出身の鈴木重朝(しげとも・孫三郎・雑賀孫市〈まごいち〉)は、その才能を秀吉に見いだされ、豊臣家の鉄砲頭を務めました。

「関ヶ原の戦い」では、前哨戦となった山城国伏見城(京都市伏見区)の攻略に参加し、守将の鳥居元忠を討ち取る活躍でしたが、敗戦により改易となりました。

しかし、彼の優れた技量が見込まれたのでしょう、やがて徳川家康に召し抱えられ、徳川御三家のひとつ水戸徳川家に仕官がかなうと、続いて息子の代には「藩主頼房の子(家康の孫)を養子」に迎えたことで、鈴木家は水戸藩の家老格となるなど、華麗な復活を遂げました。

ほかにも、一度は改易されながら再び以前と変わらぬ所領を奪回した大名、あるいは「家康以上の名声」を勝ち取ることになった大名もいます。

敗者の汚名を払拭

【奇跡の復帰】立花宗茂(1569~1642)
 筑後国柳河(福岡)・西軍 13万2000石→改易

立花宗茂(たちばなむねしげ)は、養父である「雷神」立花道雪(どうせつ)に劣らず武勇に優れ、あの豊臣秀吉も彼を「九州一」と褒めたたえました。

また、彼は武勇だけでなく人格にも大変優れ、そのため「関ヶ原の戦い」では、豊臣への忠義を重んじて西軍に参加し、東軍の近江大津城を攻撃しました。

戦後は、所領をすべて没収されて一時期牢人となりますが、彼の人柄を慕ってやまない全国の大名からのオファーは絶えず、ついに徳川家康自らが彼を召し抱え、程なく大名に昇格復帰しました。

徳川秀忠の代には、筑後柳河10万9000石を与えられ、「西軍所属で旧領を回復できた唯一の大名」となりました。

【名声で凌駕】真田昌幸(1547~1611)
 信濃国上田(長野)・西軍 3万8000石→改易

真田昌幸はたぐいまれな知謀の才能を活かし、武田信玄の家臣時代は「戦国最強」と呼ばれた武田軍を支えました。

信玄の死後は「独立大名」として、家康の侵攻を得意のゲリラ戦で何度も撃退します。

「関ヶ原の戦い」でも、家康の息子、秀忠の率いる別働隊の大軍を信濃国上田城(長野県上田市)で迎え討ち、死守した話は有名です。

戦後は所領を没収され、自身は高野山に蟄居となりますが、対家康の「不敗神話」を維持したまま、1611年に没しました。

真田家では、失った所領は事前に徳川方に配した嫡男信之が受け継いだため、「真田家は実質的に存続」、さらにその弟信繁(幸村)は、後に勃発する大坂の陣で、大河ドラマ「真田丸」でも知られたように家康を苦境に追い込む大活躍を見せ、「名声においては家康をいまも凌駕する」など、まさに「真田の戦略」の完全勝利です。

Q9. 結局、関ヶ原の戦いにおける「真の勝者」は誰だったのでしょう?

長い目で見れば、「最終的な勝者」はこの人物だったと思います。

【まさに大逆転】島津義弘(1535~1619)
 薩摩国鹿児島(鹿児島)・西軍 島津家の所領60万9000石→所領安堵

島津義弘は「戦国屈指の猛将」として、豊臣秀吉の朝鮮出兵でも敵軍に最も恐れられるなど、天下にその名を知られた人物です。

「関ヶ原の戦い」では諸々のなりゆきから西軍に属し、予備兵力として出撃の機会をうかがっていました。

しかし、小早川秀秋の裏切りによって、早々に味方の戦線が崩壊し大混乱に陥ったため、前方の徳川本陣など敵陣を突破する強攻策で多くの犠牲を出しながらもかろうじて脱出に成功しました。

戦後は、領内の温存兵力と薩摩近海を航行する貿易船の妨害をカードに、徳川家康と「巧みな外交交渉」を続けます。

その結果、改易はおろか、所領も安堵されるという幸運を勝ち取りました。

苦節268年、ついに「関ヶ原のリベンジ」を果たす

島津家ではさらに、1609年に琉球(沖縄)へ侵攻し、農作物や特産品の収奪や、琉球を傀儡(かいらい)にした海外貿易で藩政を潤したほか、2人の将軍(11代家斉、13代家定)に正室を出すなど、「徳川家の姻戚」として江戸後期の幕政に大きな影響を及ぼしました。

そして幕末に至り、ついには同じ「関ヶ原での敗者」毛利家と薩長同盟を結び、「徳川家(東軍)を倒す悲願のリベンジ」を果たすわけです。

ちなみに、天皇陛下の妹の貴子さまの降嫁先も島津家であり、いまや皇室とも縁戚関係です。

「関ヶ原の戦い」に敗れた西軍大名は、その多くが過酷な処分を受けましたが、それを生き永らえた大名の中には、形はさまざまながらも「勝者(東軍)以上の成功」を収めた人物も存在しました。

現代のビジネス社会も「勝つか負けるか」のシビアな世界です。しかし、「目の前の戦い」には敗れても、「長期的な勝利」を得る方法はある、というのが「関ヶ原の戦い」の教訓でもあります。

「歴史を知る」ことで、「人生の失敗や敗北」に直面したときに、それを克服するためのヒントをぜひ見つけてください。歴史に学ぶ人ほど「強く生きる」ことができるからです。