京大経済学部志望のあまりに危険な戦法──数学ブンブン丸・片平【学歴狂の詩 第11回】

佐川恭一「学歴狂の詩」

京大経済学部志望のあまりに危険な戦法──数学ブンブン丸・片平【学歴狂の詩 第11回】

稀代のカルト作家として人気を集める佐川恭一さんによる、初のノンフィクション連載。
人はなぜ学歴に狂うのか──受験の深淵を覗き込む衝撃の実話です。

前回は、「2浪のアニオタ柴原」の浪人時代の狂気について綴りました。
今回は、佐川さんが「数学ブンブン丸」と呼ぶ男についてのエッセイです。

また、各話のイラストは、「別冊マーガレット」で男子校コメディ『かしこい男は恋しかしない』連載中の凹沢みなみ先生によるものです!
お二人のコラボレーションもお楽しみください。

イラスト/凹沢みなみ

イラスト/凹沢みなみ

佐川恭一の浪人生活

 前回、二浪の柴原について語ったが、私自身の浪人生活についても少し触れてみたいと思う。私は駿台予備校で浪人時代を過ごしたのだが、その時は京大文系を目指すLAコースというところに入っていた。精神的には京大不合格の深い絶望から抜け出せずにいたにもかかわらず、私の浪人生活は比較的スムーズに始まった。それは某R高の仲間が山ほど浪人していたので、同じ校舎に友人も多く、ほぼ高校四年生のような雰囲気だったからである。駿台では講義が非常にわかりやすいことに感動したが、他には人間関係含めあまり大きな変化のない延長戦の中で、少数ながら新たな友人ができもした。今回は大谷高校からやってきた刺客・数学ブンブン丸こと片平について紹介したい。

 私たちは基本的に某R高の生徒で固まって最大派閥を形成していたので、はっきり言って他の駿台生にしてみればウザかったに違いない。しかも、私は高三で完全に仕上げ切ったつもりだったので学力貯金がかなり貯まっており、前期の模試では無双状態だった。今は知らないが、当時の駿台では前期・後期でコースごとに成績優秀者一、二名を表彰しており、私は前期で帰国子女の女の子と一緒に駿台オリジナル置き時計をもらった。ちなみに私の調子は前期から後期にかけてゆるやかに下降していき、受験の際にはさほど余裕がなかったことはご存じの通り(?)である。これは私が落ちていったというよりは、現役生やまだ前期では粗削りだった浪人生たちの伸び幅が大きかったからだと思う。今思えば、前期に無双してしまったことで受験に対する意識がやや緩んだことは否めない。私の考えでは、人間の持てる受験への意識、いわゆる「受験精神」は有限であり、圧倒的偏差値強者でないのなら、自分に甘くならない程度にその配分を考えることも重要である。

 少し話が逸れてしまった。浪人生活の話に戻すと、英語講師陣には宮坂(連載第四回参照)もいたし、基本的に某R高の生徒は他の浪人生よりリラックスして過ごすことができていたと思う。そんな中で私たちが片平に注目したのは、片平が「大学への数学」という難しい数学雑誌をいつも解いていたからである。私たちは基本的に駿台のテキストと青チャートでええやろ的なノリで過ごしていたので、片平に「数学得意なん?」みたいな感じで絡んでいった。片平はかなり偏屈な人間だったので、浪人中もその後も彼と付き合いが長く続いたのは、某R高出身者の中でも私以外にほぼいなかった。私はとにかく変わった人間、正確に言えば変わっているのに自分を変わっていると思っていない人間が好きなのである。

 片平は数学が鬼のようにできたので、ホームラン級にハマった時には好成績を収めていたが、派手に空振ることもあった。そこから「ブンブン丸」の異名を得たのである。理三や京医のような宇宙人界隈では、数学で「空振る」という時点で「鬼のようにできた」とは言わないだろうが、その京大文系コースでは片平がトップクラスの数学マスターであることは間違いなかった。しかし、どうにも数学以外がショボかった。もっと数学以外に力を入れた方がいい、安定した得点源になる英語をもっとやった方がいい、と私は何度も言ったのだが、片平は「せやなあ」と言いつつ、やはり「大学への数学」をやってしまうのだった。とにかく数学が楽しくて、どうしても数学に吸い込まれていってしまうのだというのである。理系の方がええんちゃうん? と言ったこともあったが、片平は物理も化学も嫌いで、もっと言えば他の文系科目にもあまり興味がなく、ただただ数学だけが好きだったのだ。

 私は駿台のテキストをやり込むのと同時に、片平の影響で「大学への数学」の東京出版が出している「1対1対応の演習」という問題集に取り組み出した。正直なところ、定番の青チャートは高校時代にやりすぎて見るのが嫌になっていたのだ。これは良い気分転換になったと思うし、数学力も現役時代より安定したと思う。ちなみに英単語集は「ターゲット1900」をやりすぎて見るのが嫌になったので、システム英単語に変えた。基本的には同じ本を何周も回すのが良いとは思うが、精神的に限界を迎えた方は少しやるものを変えてみると、また多少は楽しく勉強できるようになるかもしれない。

あまりに危険な戦法

 片平は京大経済学部志望で、A判定のこともあればE判定のこともあった。とにかく数学ブンブン丸なのだ。あまりにも危険な戦法だが、本人がどうしてもそのやり方しかできないというなら仕方がないことである。また、片平は私と一緒に前期成績優秀者に選ばれた帰国子女の女の子に恋をしていた。私がその子と二人で表彰された時には嫉妬心をあらわにし、半沢直樹の登場キャラのような顔をしていたものだった。しかしもちろん、受験に魂を売っていた男子校出身の私がその子と普通に話すことができたわけもなく、この表彰カップルが接近することもなかった。その子は確かに可愛かったし、ふわふわした天然系の性格もまた良き、と多くの男子どもが抜かしていたが、当時の私はまだ尖りまくっていて、英語でめちゃめちゃ点を取ってくる帰国子女を可愛い以前に卑怯者だと感じていたのだ。正確な順位を言えば彼女がLAコース一位で私が二位だったのだが、「実質一位は俺だ」と本気で思っていた。あんなものは英語ができて当たり前で、俺は一科目分ハンデを負っている、あの女は俺が後期でコテンパンにしてやる、俺がもうひと踏ん張りすれば、受験英語の領域でならネイティブにも勝てる――私がそんなことを言うと、片平は「狂っとんな」と言って楽しそうに笑うのだった。

 私たちはそうして京大を受け、私は文学部に合格し、帰国子女も総合人間学部に合格し、他の某R高生たちも法、経済、文やらにガンガン合格した。そんな中、片平は京大経済にあっけなく落選したのだった。私たちが受験した年、ちゃんとデータを見たわけではないが、おそらく数学が易化していて、数学ぶっ放し型の片平にはかなり苦しいセッティングだったと思う。片平が進学したのは永森と同じ同志社の経済学部だった。大学進学後も私は片平と会うことがちょくちょくあった。一緒にいてなんとなくウマが合うし、何よりこいつがいなければ「1対1対応の演習」はやらなかった。私は京大二次試験本番、マイコプラズマ肺炎明けの最悪の体調で、試験中の記憶もあまりないほどだったのだが、もしかすると片平のおかげで自動的に数学が解けるようになっていたのかもしれないのである。

 私は片平と二人でカラオケに行くこともあったが、片平はめちゃくちゃ歌がうまかったので、聴いているだけで楽しかった。なぜそうなったかよくわからないが、二人で行ったときにはTOKIOの「LOVE YOU ONLY」を交互に歌うのが定番になっていて、そのためか今でも私は「LOVE YOU ONLY」が好きである。ちなみに言えば、早稲田を受けに行く時に新幹線で流れていた「AMBISIOUS JAPAN」も、耳に入るといまだに感慨深く聴いてしまう。あまり意識してこなかったが、私はかなりTOKIOが好きなのかもしれない。

 ここで私が人生ではじめて合コンなるものに行った時の話をしたいのだが、そのメンバーの一人は何を隠そうこの片平だった(もう一人は某R高の同じクラスから駿台→京大経済学部に進んだ男である。彼のこともそのうち本連載で紹介することになるだろう)。一応言っておくと、この合コンの幹事は私だった。私はその前段、友人の紹介で看護の専門学校に通う女の子を紹介され、いきなり一緒に映画のセカチューを観に行くという暴挙に出ていた。そして晩御飯を一緒に食べたのだが、その子とは一応仲良くはなれそうだが付き合うところまではいかないな、とおそらくお互いに思っていた。そこから、それぞれ友人を呼んで合コンをしようという話になったのである。

 はっきり言えば、私が声をかけられる友人の中での主力は永森(連載第三回参照)だった。永森を呼んでおけばルックスもいいし話もうまいし、場が盛り上がるだろうことは間違いなかった。しかし私は永森に声をかけなかった。今ではなんとアホな発想なのだろうと思うが、若い私は永森に全部持っていかれるのが嫌だったのだ。そこで、私は自分と同程度の力を持つと思われる者たちを召喚した。それが片平を含むその二人だったわけである。そして当然、合コンはおそろしいほど盛り上がらなかった。私も片平も京大経済の男も、本当に何をどうしていいかわからなかったのである。相手の女の子は看護の専門学校の子と、京都産業大学の子が二人だった。そのうち京産の一人が競馬好きだったので、私はなんとかその子と競馬の話で盛り上がっている風にしたつもりだったが、やはりどこまでも「風」であり、女の子たちの「自分たちだけでしゃべっている方が楽しい」という雰囲気を崩すことはできなかった。看護の女の子も私と一度デートしたことなどすっかり忘れているかのような他人行儀ぶりで、もしかしてデートした子と違う子が来たのかな?と何度も疑ってしまうほどだった。

 そうして地獄の二時間が終わり、駅に向かってみんなで歩く時も、男女がはっきり分かれた形で歩くことになった。京大経済はすっかり意気消沈し、私も「失敗したな……」と落ち込んでいると、驚くべき事に片平は「ちょ、ちょ、二次会とか行かんの?」と言ってきた。

「はあ? これで二次会行けるわけないやろ」

 私は、こいつは「大学への数学」を散々やっていたくせに論理的思考が一切身についていないのだな、とあきれながら言ったが、片平は諦めきれないようで、「俺はカラオケに行きたいねん」と言った。確かに、片平の謎にうますぎるカラオケを聴けば多少盛り上がる可能性はあったが、この状態でカラオケに誘うなんてことはありえない。「いや、やめとけ。絶対無理」と私が言うのも聞かず、片平は「あの!」と前をスタスタ歩く女の子たちに声をかけた。

「もしよかったらカラオケとか行きませんか!? 二次会ってことで……」

「京大トークを横で聞いて辛かった」

 すると女の子たちは少し振り返って「いや、私はいいかな」「うん、私も帰る」などと冷徹につぶやき、また駅へと爆進し始めた。私たちはそれまでよりさらに深い無力感に苛まれながら、ズンズン開いていく女の子たちとの距離を埋める気にもならず、肩を落としてダラダラ歩いた。

 合コンというのはこんなに苦しいものなのか、と私が世間の厳しさにおののいていると、片平は唐突に「俺、やっぱ京大受けるわ」と言った。「はあ?」と私と京大経済が言うと、片平は「やっぱ、お前らは京大やから自然に京大トークしてたけど、それを横で聞いてるとつらかった」と本当につらそうにつぶやいたのだった。まさか女の子からの扱いよりも、私と京大経済の男との、合コン中特に意識せずにしていたらしい京大トークに傷つけられていたとは思わなかったのだが、もし自分が逆の立場だったとすれば同じ気持ちになっていたかもしれない。中島義道の『差別感情の哲学』という本には、社会的上位集団に属する人間の差別感情について触れた次のようなくだりがある。

 ある男が出身校の慶応大学を愛しているとしよう。(中略)最も差別構造の「完成された」形態は、ほとんどが慶応大学出身者であって、わずかに三流大学出身者が混じっている席である。そして、慶応ボーイたちが臆面もなく、大学の思い出話に花を咲かせるときである。
(中島義道、『差別感情の哲学』、講談社学術文庫、148-149)

 そもそも中島義道氏が東大卒なのに例に慶応を使っていることに小狡さを感じないでもないが、それはとりあえず措くとして、とにかくここで慶応ボーイたちは慶応がいかに優れた大学だったかではなく、いかに「ひどい」大学だったかを語ることで、罪の意識なく「誇り」を噴出させ人を傷つけてしまうのだと中島は言う。名門大卒の人間なら、確かにその構造の強化に加担してしまった場面をいくつか思い出すことができるのではないだろうか。もしかすると、片平は私たちの話をそんな風に感じて傷を負ったのかもしれなかった。

 その後、片平から「俺は同志社をやめるぞ、ジョジョーッ!!」というメールとともに、「F」という成績表のアルファベットがデカく映った写メが送られてきた。Fの意味は正確にはわからなかったが、何か大事な単位でも落としたのだろうとは思った。ただ、一回生の前期で一つ二つ単位を落としたところでおそらく大したことはないし、必修でも再履修があるに決まっているので、私は彼を慰留した。彼の一浪時の感じからして、結局数学ブンブン丸としての本質は変わらないだろうから、京大を受けるにしてもまた数学の難易度に大きく左右されてしまう、その結果再び同志社ということも考えられる……私は大体そんなことを言ったが、片平は聞く耳を持たなかった。それから片平は同志社をやめ、翌年の京大入試に臨んだ。そしてあっさり落ちた。だが、今回は早稲田に合格していたので、ある程度納得して受験を終えることができたようである。

 私は片平が東京に行く前に一度会って、一緒にお別れの「LOVE YOU ONLY」を歌ったが、それ以降は一度も会っていない。今うまくやれているのかどうかもわからない。だが私の浪人生活、そして大学生活の初期に、彼という存在が彩りを添えてくれたことは間違いなかった。人生において、ある時期に親しかった人間と疎遠になることはよくあることだ。そこには寂しさもあり、どこか空しさもある。しかし、現在のつながりと過去のつながり、現在の時間と過去の時間、そこに実は優劣はないのではないかということを、私はたまに考える。若い大学生だった私が「LOVE YOU ONLY」を肩を組んで歌った相手は片平だけであり、その私を知るのは片平だけなのだ。そのことに何か意味があるのかといえば、ないかもしれない。

 だが、私はこの連載で浪人時代のことを書こうと思うまで片平のことをほとんど忘れていたのに、書き始めるや否や記憶が一挙に蘇るのを感じた。そしてまた、片平を通じて自分自身の過去も次々に思い出されてきたのである。おそらくだが、私が再び実際に片平と出会うことがあったとすれば、これと同じことがより高いレベルで起こるのではないだろうか。つまり、ある人間と実際に過ごした時間が――他愛ない時間であったとしても――自らの内に驚くほど鮮明な刻印を残しているのだ、という気づきを得ることが。そしてその鮮明さは、場合によっては「現在」と区別する必要がないほどなのではないか?

 最後にめちゃめちゃ俗な受験の話をつけ加えさせていただくと、片平だけでなく、私自身や他の友人知人を見る限り、京大ギリギリ落ちが同志社や立命あたりに行くとなった場合、ほぼ闇落ちする。そこから復活した人間もいるのかもしれないが、はっきり言って何歳になっても完治は難しいという印象がある。この連載を読んでくれている関西在住の京大受験生の方にアドバイスしておきたいのだが、騙されたと思って絶対に早慶を受けておいてほしい。「俺は絶対京大に受かるし、疲れるからいらん」と言っているあなたは地獄を見る可能性がある。本当に、本当に早慶だけは受けた方がいい。どこかの進学校で洗脳された旧帝主義者のあなたは私立というだけで馬鹿にするかもしれないが、早慶を本気で馬鹿にできる人間など世間に出ればほとんどいない。そして就職もかなり強い。さらに、私にはわからないが、「東京」で過ごすことのアドバンテージが大きいと語る友人知人も少なくない。そしてまた、早慶を受けた上で落ちたのであれば、それはそれで少しは納得して関関同立に通うことができるだろう。これは一人でも精神を完全破壊される者を減らすための、私からのお願いである。

 次回連載第12回は5/16(木)公開予定です。

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