東京で「育ちの良い人」を擬態し続けて学んだこと──治安最悪の地方都市からでも〈育ちが良い〉は作れる
東京で「育ちの良い人」を擬態し続けて学んだこと──治安最悪の地方都市からでも〈育ちが良い〉は作れる
第一回では、かとうさんが生まれた「治安が悪い地方」と、そこからどのように「育ちの良さ」を擬態したのかが語られます。
あなたの「育ちの悪さ」はどこから?
「育ちが悪い」と言われる人間はいつ自分の育ちの悪さに気がつくのだろう。
他人に箸の持ち方を指摘された瞬間だろうか。
上品に立ち振る舞うお嬢さんと初めて接した瞬間だろうか。
47万部に達したベストセラー本『「育ちがいい人」だけが知っていること』(ダイヤモンド社)で著者は育ちを「所作やふるまいを知っているかいないかだけのこと」であると定義する。
所作やふるまいを学び実践すれば、確かに他者の目には表面上はきちんと育てられたかのように映すことができるものだ。
しかしそれは擬態に過ぎず、自身が育った環境を欺くことはできない。
私の育ちについて申し上げると、とても治安の良い地域とは言えない公立中学校に通っていて、歩いて30分の学校に到着するまで何度露出狂や突然走ってきてスカートの中に手を入れる変態に遭遇したか分からない。
当時47都道府県の中でもいじめの認知件数が多かった私の地元は小学校の頃から当たり前のようにいじめが存在したし、その対象がコロコロ変化することにも慣れていた。
留守電に「学校来んな」と吹き込まれたことや修学旅行の間中どの女子からも口をきいてもらえなかったこと、携帯電話を排水溝に流されたことがある。それを知った担任の教師からは「先生も職員室で他の先生に財布を盗まれたことがあるからそんなものだ」というちんぷんかんぷんな慰めを受けた。
母が持ち帰ってくる世間話は「近所のお家の庭で高校生が灯油をかぶって焼身自殺をした」とか「同級生の子が男に手を引っ張られて無理矢理車に乗せられそうになったらしい」というようなショッキングな話も多く、かといって車で送り迎えをしてもらえるわけでもタクシー代をもらえるわけでもなかった。
中学生にして地元のスナックで酒臭い男の相手をしてる同級生がいたり、大麻を買わないかと持ちかけてくる先輩がいた。
学校でリップやキーホルダーを盗まれたりしたら「持ってきた方が悪い」という雰囲気で、頻繁に誰かの物が消えていた。
そんな環境で思春期を迎えた。
家庭環境は物心がつく前から悪かったが、それを悪いと認識するまでに時間を要した。
母は何かと理由をつけて私に手を上げ、父は毎晩のように酒を飲んで深夜に帰宅し私と関わるのを避けた。
父方の祖父と祖母は父が幼い頃に離婚している。祖父は再婚した相手との間に子供を作り、癌で亡くなった。父がお酒を飲み過ぎたとき「父親がどんなものかわからない」と言われたことがある。私も未だに「父親」がよくわからないままだ。
幼少期は父と母が罵り合う声や時折聞こえる物音を仲裁していたが、思春期になってからは大音量のロックミュージックを流したヘッドホンで耳を塞ぐことで凌いだ。
高校一年生になるとすぐにプチ家出を繰り返し高校を単位ギリギリで卒業した後、そのまま本格的に家出をして上京しそのまま12年が経過して今に至る。
それらの境遇を「人生はそういうもの」だと諦めていた。
だが上京してからというもの育ちが良い人々との出会いは多く、今まで自分がいた場所との大きな格差を知った。
東京で生きていくのならこのままの私では淘汰されるだろう。
そう思った私は、彼らに擬態することを覚えたのだ。
「大した女でもないくせに」
赤坂の大きな土地に実家を持つ7歳年上のお姉さんからは、ホテルのプールで使ったタオルは綺麗に畳んで一箇所にまとめる気遣いや自宅でも器や花を愛でる心の余韻を教わった。
数冊のマナー本からは手土産の渡し方、食事の作法、お店や人の家で水回りを使ったら軽く掃除をしてから出ること、化粧や料理に「お」を付けて話すことを学んだ。
育ちのいい人が読むことはないだろう『「育ちがいい人」だけが知っていること』が出版されたのは2020年だが、私が学び実践してきたことが丁寧にまとめられた内容の本であった。
以前は正しく持てなかったお箸の持ち方を矯正し、小さな豆もお箸で掴めるようになった。
ガニ股だった歩き方はつま先から地面につける練習をすることで、高いヒールを履いていても静かに歩けるようになった。
口をつけて飲んでいた1.5リットルのペットボトルの水は一人でもグラスに注いで飲むようになった。
座敷や玄関で靴を脱いだら他の人の靴まで向きを直すようになった。
どれも最初は面倒なことも継続することで慣れるものだ。そうして成功体験を増やして自信を持つことで、佇まいや周囲からの目も変化した。
男性と二人で食事をしている最中に
「食器の持ち方に育ちのよさが出ちゃってますよ」
と指摘を受け、
編集者からはこの企画の話の最中に
「なんだかんだ言って本当は育ちいいですよね?」
と曇りのない目で尋ねられた。
「育ちが良い」は作れるのだ。
服装はペラペラのポリエステル生地から少しずつファミリーセールで質の良いものを買えるようになり、これまでの自分を脱ぎ捨てた。
正しい姿勢を保つためにトレーニングを続けて数年が経ち顔を上げると、鏡には洗練され都会的な外見になった私が映っていた。
両親もできない正しいお箸の持ち方にも慣れて、有名な割烹の大将にも物怖じしなくなった頃、「理想の彼女」と猛アプローチを受けて広尾に実家を持つ男性と交際する機会が訪れた。
週末は八景島シーパラダイスまでドライブしたり彼の家族が所有する葉山の別荘で過ごし、私が友達と旅行に行くときでも空港まで車を出してくれた。
そんなジェントル度満点の彼は、私の実家(現在関係は修復している)に一緒に帰省したことをきっかけに態度が豹変する。
両親は彼をもてなすため車で40分の繁華街近くにあるカジュアルフレンチにも連れて行ってくれた。
しかし幼い頃から都内の真ん中の飲食店で食事をしてきた彼にとっては味気ないものだっただろう。私にとっても外食というよりは伊勢丹の地下で買う惣菜のような味に感じた。
大袈裟に「おいしい」と料理の感想を繰り返す両親を見て「彼と東京でデートするようなお店に両親は行ったことがないのだろう」という切なさと、彼に対する少しの羞恥心が芽生えた。
東京に戻って間も無く、絶対に私に財布を出させなかった彼が美術館のチケット代を請求するようになり、食事のときはスマホを触ることが多くなった。
夜から翌日の昼まで連絡の取れない日がぽつぽつと増えたのは、それまでは考えられないことだった。
その後、彼とケンカをしたとき彼が放った
「大した女でもないくせに」
という言葉が今も胸に残っている。
知人のラウンジ嬢が言っていた
「あの客お金持ってるから店外したのに家行ったらショボくて思ってたのと違った、まじ冷めた」
という話を思い出した。
育ちが良くないことを理由に突然見下される
彼が私の「育ち」を知ったことで私への幻想や期待がなくなったのだろうということはすぐに分かった。嘘をついていたわけではなくとも、東京で「育ちのよい人」の擬態を続けていた私が詐欺師のように見えたのかもしれない。
そっけなくなった彼のLINEを待つストレスによってどんどん気持ちが冷めてゆき、また、若かった私にはいくらでも出会いがあったため、何らかの努力や話し合いによる修復をして関係を続けようとは思わなかった。また彼の態度の変化が私の育った環境によるものならば、労力をかけてそれらをしたとて前向きに事態が好転するとも思えなかった。
顔を合わせることなく電話で別れませんかという打診をすると、彼は一言も私を引き止めることはなく「わかった、なんだか最近タイミングが合わなかったよね」と言った。
「私の格付けをあなたが下げたから、合わせてくれるのをやめただけでしょう」と思ったが、口にはしなかった。
どうしようもないのに急に惨めな気持ちになった。
私自身がどんなに努力で品行を獲得しようと、生まれた家や家族は変えることができない。
育ちが良さそうに振る舞うことはできても育ちが良くなるわけではない。
大事に扱ってくれていた人にさえ、育ちが良くないことを理由に突然人間として見下されることがあるのだ。
彼と別れてからは、仲良くなりたいと思った人と出会ったら誤解のないよう自分の出自を早いうちに話すことにした。意識してカジュアルな服装を選んだ。本当は緊張していても、大げさなくらい人にくだけた態度で接することも覚えた。
そうすることで「所作やふるまいが良い」と「でも良いところのお嬢さんではなさそう」という印象は両立した。
出自を話した瞬間から雑な態度を取られることもあったので「育ちの良さを身につけることは得なんだなぁ」としみじみ思った。
このような出来事をきっかけに、私は人のバックボーンについて思索を巡らすことになった。
育ちの良い人の世界には「育ちの良くない人」が存在しないため、彼らの世界を知らない。逆もまた然りだ。
自分の育ちの悪さをいやというほど自覚した私だからこそ、文章にして伝えられることがあるのではないかと思い筆を取った。
おそらく「育ちが良い人は知らないこと」が広がっているだろう。
次回連載第2回は3/5(火)公開予定です。
02/06 20:00
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