イタリアン=スパゲッティだった日本に訪れた「イタメシ」ブーム

稲田俊輔「異国の味」

イタリアン=スパゲッティだった日本に訪れた「イタメシ」ブーム

日本ほど「外国料理」をありがたがる国はない……!
「現地風の店」が出店すると、なぜこれほど日本人は喜ぶのか。
日本人が「異国の味」に求めているものはなんなのか。
博覧強記の料理人が、日本人の「舌」を形成する食文化に迫るエッセイ。

前回はロシア料理編をお届けしました。
今回からは、日本の外食文化の絶対王者「イタリアン」を全5回にわたり論じていきます。初回は、イタリアン=スパゲッティ、だった80年代を振り返ります。

80年代「イタメシ」ブーム、しかしそれはまだ庶民にとっては縁遠い物だった

 今更ながら、改めて。この連載は、日本における外国料理の変遷を扱っています。なので、対象となるのが僕自身が実際行ったことのある国の料理であってもそうでなくても、あくまで日本に住む一生活者としての視点からの話を書く、という点は一貫しています。「本場ではこうだった」という話はあえて避け、あくまで日本で見聞きしたことに絞っているわけです。
 しかし、ことイタリア料理に限っては少し状況が特殊です。なぜなら、イタリアは僕にとって「行ったことがない」国であるにもかかわらず、「本場はこうだ」という話だけは、日本に居たままでいくらでも耳に入ってくるから。本やネットはもちろん、実際行った人から生の話を聞くことも少なくありません。そしてイタリア料理は、とかく本場との対比で語られがちです。
 長年そんなことが続いてきたから、僕はもはや行ったことがあるかのような錯覚に陥ることがあります。すっかり「耳年増」の状態です。

 僕が初めてイタリア料理に関して本場の生の情報を得たのは、イタリア旅行から帰ってきた母親からでした。まだ中学生の頃でしたから、1980年代ということになります。
 彼女にとってイタリアは憧れの国のひとつであり、またスパゲッティは得意料理でもありましたから、行く前は本場のそれをとても楽しみにしていました。しかし帰国した母は、実に残念そうな口ぶりでこんなことを言ったのです。
「本場のスパゲッティは大味で、ちっともおいしくなかった」
 大味、というのはなかなか説明が難しい概念ですが、その対義語は「小味が利いている」です。繊細な旨味が複雑に折り重なった味と言えるでしょう。そうなると「大味」は、単調で大雑把な味、ということになるでしょうか。

 その数年後、現地の味の報告を僕にもたらしてくれた二人目の人物は、同級生の女の子でした。彼女は母と違い、それを極めて好意的に受け止めていました。
「スパゲッティのトマトソースがびっくりするくらい酸っぱくてすごくおいしかった」
 というのがその感想。
 二人の異なる感想は、今となってはどちらもなんとなく腑に落ちます。素材をシンプルに生かした本場のスパゲッティは、期待値が高すぎたことも相まって単調な味に感じられたのでしょうし、短時間で手早く仕上げられるトマトソースもまた、当時の日本の一般的な洋食におけるそれとは全く異なっていた、ということです。
 当時の「本格的な」スパゲッティのイメージとは、手の込んだ洋食メニューのひとつ、というものでした。味付けには「昆布茶」や「醤油」などの隠し味が複雑に使われ、トマトソースを始めとする各種ソースも、いろいろな香味野菜と共にじっくり長時間、酸味を飛ばして甘味を引き出すように煮込まれ続けるものだったと思います。

「ゆであげ」という概念の登場

 当時は、スパゲッティと言えばケチャップ味のナポリタン、という認識はまだまだ根強い時代だったと思います。しかし同時に世の中では「ゆであげ」を誇らしげに謳うスパゲッティ専門店も登場していました。茹で置きした麺を炒めて仕上げるのではなく、注文後に茹でて調理する、ということですね。今ではそんなの当たり前以前の話ですが、当時は茹でたてを提供することがそれだけで付加価値でした。家で母親が作っていたスパゲッティも、おおむねそのようなお店で出てくるのと同じようなもの。トマトソースは酸味がまろやかになるまでじっくり煮込まれ、クリームソースは生クリームではなくベシャメルソースで、乾燥バジルを使った「バジリコ」というメニューも定番でした。
 僕自身は家で「ナポリタン」を食べていた記憶がほとんどありません。ちょうどナポリタン一強からの過渡期で、我が家は少しだけ時代を先取りしていたということになるでしょう。そしてそれら「ゆであげ」のスパゲッティこそ(ナポリタンとは決定的に違い)本場イタリア風である、と誰もが信じて疑わなかったのではないでしょうか。僕の母もそう信じたままイタリアに行き、そこで本場とのあまりの違いにショックを受けて帰ってきた、ということになります。

 スパゲッティ以外のイタリア料理はどうでしょう。まず挙げられるのはピザです。80年代当時は「ピザパイ」とも呼ばれていました。ピザパイというのはイタリアではなくアメリカでの呼称です。当時のピザは、もちろんイタリアの食べ物と認識されてはいましたが、実のところそれはアメリカナイズドされたイタリア料理から派生していったものでした。
 資料をひもとくと、本場風のイタリアンが到来する以前の日本では、イタリア料理と言ってもそれは、フランス料理の流れを汲む西洋料理店で供される「イタリア風料理」であったり、一旦アメリカを経由したスタイルであることが多かったようです。
 当時、家族で利用していた「イタリア料理の店」が、まさにそんな感じでした。看板メニューの大きな「ピザパイ」は、保温用のアルコールランプが仕込まれた金色の平台に載せられてうやうやしくサーブされました。ピザパイ以外のメニューは、ステーキ、ハンバーグ、グラタンなど、当時増え始めていたファミリーレストランとほぼ共通のものばかりだった記憶があります。
 その店にある時、珍しくランチタイムに連れて行ってもらい、内容をよく見ずに「サービスランチ」を選んだら、出てきたものは白身魚フライにライスとコーンスープが付いた内容だったことがありました。子供心にも「せっかくピザパイの店に連れてきてもらったのに、なんてつまらないものを選んでしまったんだ!」と後悔しきりだったことを覚えています。
 ちなみにかのサイゼリヤの創業当時も、まさにこういったタイプの店だったことが、公開されている当時のメニューから推察されます。現代においては、こういうスタイルの「イタリア料理店」はほとんど存在しないでしょう。子供時代の思い出のその店も、その後、宅配ピザ専門店に商売替えしたようです。

イラスト:森優

イラスト:森優

「ペペロンチーノって知っとる?」

 再び資料をひもとくと、この時代、つまり1980年代は、本格的なイタリア料理が一気に花開いた時代、ということになっています。本場で修業した天才肌のシェフが次々にあらわれ、今に続く名店が誕生し、日本のイタリア料理界は一気に世界レベルに至った、と。もちろんそのこと自体は疑いようのない事実だと思います。しかしそれはあくまで都会の、そしてガストロノミックな限られた世界での出来事。日本のほとんどを占める地方においては、そして我々庶民の世界とは、全く関係無いに等しかったわけです。
「イタメシブーム」なんてことが言われてからずいぶん経った、あれは忘れもしない1993年。大阪郊外の工場地帯という決して都会的とは言えない場所の路上で、印象的な会話をたまたま耳にしたことがありました。会話の主は小さなお子さん連れの二人の若い主婦。長い髪を茶色に染めた、当時「ヤンママ」と呼ばれていたようなタイプでした。

「なあ、ペペロンチーノって知っとる? わたし最近めっちゃ作ってんねん」
「ペペロンチーノ? なんか聞いたことあるな」
「ニンニクと鷹の爪をな、オリーブ油で揚げるねん。そんでその油でスパゲッティを炒めるねん」
「そんなんおいしいの? 味付けは?」
「塩だけ。ハマるで」

 幹線道路の横断歩道で信号待ちをしながらその会話を聞くともなしに聞いた僕は、
「ああ、ついに日本の津々浦々にイタリア風のパスタが浸透したのか」
 と、ある種の感慨に耽りました。

 その後も日本のイタリア料理界は、世界と歩調を合わせて進化し、スターシェフが次々と誕生、そして地方料理への細分化も進み、と順風満帆なようですが、それはやっぱり言うなれば上澄みの世界。確かにこの3、40年でイタリア料理は本格化し、流行し、単なる流行を超えてすっかり定着しました。しかし巷におけるその歩みには、もっと複雑な悲喜こもごもがあり、それはある意味とてもドラマティックです。このシリーズではそんな、庶民の世界におけるイタリア料理のリアルな変遷を辿っていこうと思います。

次回は4月28日(金)公開予定です。

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