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いじめられっ子、世にはばかる

川村エミコ「わたしもかわいく生まれたかったな」

お笑いコンビ「たんぽぽ」の川村エミコが、不幸な星のもとに生まれてしまったばっかりに、
ちょっと生きづらく、でもどこかほっこりするような日々を、つらつらと書いていきます。
前回は、イラっとさせられる「忙しブル男」の生態についてでした。
今回は、川村さんが小学生時代から受けていたという「いじめ」を振り返ります。

いじめられっ子、世にはばかる

 小学校1年生の時は、上履きが自分の下駄箱に入っていないことが多くて、朝、下駄箱でよく上履きを探していました。 一番下の段の右から3番目に入っている事が多かったです。
 ある時は、木工用ボンドがたっぷりと上履きに入っていることもありました。小学校1年生にして冷静だった私は水道に洗いに行きました。ボンドを水圧で流し、ビシャビシャの上履きを履きました。生ぬるくなって、足をずっとグーパーしていたのを覚えています。

 ボンドが上履きに入っていた「上履きボンドDAY」、その日は大雨だったのが救いで、上履きが濡れるような日で良かったなぁと思ったのを覚えています。
 上履きにボンドが入っていたことがバレたくなかったので、教室は1階だったのですが、地面と繋がっているベランダに敢えて出て、カタツムリを探しました。
 探しているような探していないような、「早く上履きよ、もっと濡れろ!」と思いながら、 草の裏をめくってみたりしました。カタツムリなんかいないのに。
 上履きの中はグジュグジュしてました。モヤモヤした心と上履きの中が相まって、気持ちは赤青黄色紫のグルグルの模様で混ざり合わさり、気持ち悪さも増しました。

 そもそも何故上履きが自分の下駄箱に入ってないような事になったのかを考えると、 妊娠した担任のこうさぎ先生が産休でお休みすることになり、臨時で来た、大きいうんちの絵が描いてあるTシャツを着る身体の大きな男の先生とのやり取りが原因だったかと思います。
 小学生は、ましてや1年生はうんちが好きです。大きなうんちの描いてあるTシャツを着た先生は休み時間いつもクラスの子供達に囲まれていました。私は離れたところでただただそれを見ていました。
 小学1年生にして、すでに近眼だった私は、とても猫背でした。いつものように猫背でノートと向き合っていると、私の背筋を伸ばそうと思ったうんこTシャツ先生は、授業で使う大きな定規を私の背中に入れて来ました。
 その定規が小学生女子がよく着るスリップの背中の部分に引っかかりまして、グイッとうんこTシャツ先生が大きな定規を入れたところ、ビヨヨヨヨォォオンと斜め前へ飛びました。綺麗なアーチを描いていました。
 そこでうんこTシャツ先生は言います。「ジャンプ台みたいだな。」クラスのみんなはギャハハハハと笑いました。
 一緒にケタケタと笑えれば良かったのですが、とにかく笑ってさえいれば良かったのですが、私は口をムングッと閉じたまま、顔が真っ赤になっただけでして、その日を境に朝、上履きが自分の下駄箱に入ってなかったですし、その日からしばらく「ジャンプ台、ジャンプ台」と呼ばれました。
 
 帰りは帰りで、外履きの薄ピンクスニーカーが自分の下駄箱に入っている事がなくなり、だんだん遠くになっていくので、最後、下駄箱にすら入ってなくなってしまうのではないかという恐怖を感じたのを覚えています。当時、上履きと外履きが下駄箱のどこに入っているかが私の全てでした。

 いじめを受けていても、いじめっ子に対して 「この人が○○な事をしてきました!」などと吊し上げることも吊し上げたいとも思った事がないです。人をいじめるなんて、将来なんにもならないのになぁ。かわいそうだなぁ。と思っておりました。
 うちが高齢出産でいとこのお兄ちゃんお姉ちゃんが大学生だったり高校生だったりしたので、変に大人びていたのか、かなりの鈍感さから来るものなのか……。悲しみはあったのだけど、冷静でもありました。

 時は流れて、中学校の入学式。私は転校生でした。
 母が転校生の私を気遣ってくれて、転校したのは入学式当日でした。
 そうです。つまりは例の、先生からの「今日からこのクラスの一員の川村さんです。」の紹介がないままの転校生。A小学校とB小学校からの生徒が集まる公立の市立中学。
 A小学校からの生徒には、「あ、あの人B小学校から来たのかなぁ。」と、B小学校からの生徒には「あの人A小学校から来たのかなぁ。」と当たり前に思われて、入学式からポツンと過ごしておりました。

 暗かったからなのか、いじめはすぐに始まりました。
 机の横に掛けておいた巾着袋に「バカ、アホ、シネ」などの文字が書かれた紙がいっぱい入っていたりしました。冷静だった私は、そのままその巾着袋を教室後ろのゴミ箱まで持って行き、ひっくり返し、ザッーと中の紙のみを捨て、何事もなかったように席に戻りました。廊下から2列目の前から4番目後ろから3番目の席だったかと思います。
 席に戻る時の目線とちょっとした怪しい初動で、「あ、Nさんがやったんだ。」と分かりました。特に先生に言い付けるとかそういう事は思いませんでしたが、直接謝ってもらいたいとは思いました。
 教室前の教壇あたりにいたNさんのところへ行き「バカとかシネとかの紙を書いて巾着に入れたのあなたですよね? 謝って欲しいです。」と言いました。そしたら、Nさんは一瞬びっくりした顔をして、「ごめんなさい。」と言いました。私が「いいよ。」と笑顔で言ったら、Nさんは苦虫を噛み潰したような顔をしていました。そこから、Nさんからそういう事をされることはなくなりました。言ってみるもんだなぁと思いました。

 ある時、国語の授業で短歌を書く宿題がありました。「川村書けよ」と言われたので、嫌でしたがある二人の宿題の短歌を書きました。
 それが何故か先生にバレまして、何故か私が呼び出されました。
「書け!」と言われ、断れなくて書いたのですが、そこのところは先生に汲み取ってもらえず、「あいつらが死ねと言ったら、死ぬのか!」と言われました。
「死なないなぁ。」と思いました。が黙ってました。先生は怒っていました。
 あの教室での先生と私の身体の角度、先生のめがねの光り具合、その奥の目、生成りの白のブラウス、そのブラウスの柄をすごく鮮明に覚えております。変な刺繍だなぁと意識を刺繍に集中して気をまぎらわしていました。太陽の日差しがとても強い日でした。

 またある時は、湯呑みの絵付けをしろ!と言われました。
 何個も描きました。
 湯呑みが出来上がってきた時、班ごとで一番良い湯呑みを発表しよう!というのがありました。
 全部の班で選ばれた湯呑みが私が描いたものでした。すっごく心が沸騰する時みたくプツプツして高揚したのを覚えています。「全部わたしの描いたやつじゃん!」と。
 中学では美術部だったのですが、このことから更に活動に精が出ました。精が出たこともあってか、当時4コマ漫画を書いていたのですが、その4コマが新聞に載りました。

「湯呑み全部選ばれた案件」と「4コマが新聞に載る!」と「KinKi Kidsさん」と「あすなろ白書の西島秀俊さん」がその当時の私の心の支えでもありました。KinKi Kidsさんと西島秀俊さんが好きな話はまた別のお話です。

 美術部の髪が腰まである女性と私で、丑三つ時に白い服を着て、町内を周っているという噂も立ちました。その程度の噂は、何てことないです。朝飯前です。話した事の無いクラスの人や話した事の無い別のクラスの人に「そうなの?」と聞かれたら、「白い服好きです。」とだけ答えていました。そう答えると、聞いて来た女の子はキャッキャして離れて行きました。

 芸人になった後、当時のいじめのエピソードを話すと「どうやって乗り越えましたか?」と聞いていただくのですが、乗り越えてはいなくて、事実として受け止め、ほかに心の拠り所を見つける事で心を逃していました。
 そして不思議な事に、学校を休もうとは1ミリも思った事が無かったです。
 休んだ分のノートを貸してって言うのも、見せてって言うのも嫌でした。なので、這いつくばってでも学校に行こう!と決めていました。中学とか高校とか遅刻はありましたが、ほぼほぼ皆勤賞だったかと思います。
 夢中になれる事を見つけて没頭した事、 大正解です! 小学生の私!!

 もうこちら40のおばさんですが、気になることへの没頭力、興味深々チカラは小学生のいじめをきっかけに養ったのではないかなぁと思うのです。そう考えれば、糧になっている部分もあります。
 自分で生きていく! 一人で生きて行こう!というのがすごく強くありました。なので、いじめを経て強くなったのかなぁとも思うのです。

※次回更新は2020年7月15日(水)の予定です。

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