著者ならではの創造的な探偵小説批評、「始まりはバルザック」から新たな展望見据え

快楽の仏蘭西探偵小説

『快楽の仏蘭西探偵小説』(インスクリプト)著者:野崎 六助

「始まりはバルザック」から新たな展望

本書『快楽の仏蘭西探偵小説』は、帯に「『北米探偵小説論21』別巻」とあるとおり、著者の探偵小説論としては前著に相当する、二〇二〇年に出た『北米探偵小説論21』から派生している。前著が日本を含む世界篇であったのに対して、今回はフランス篇という個別を扱うが、この著者の本ではいつものことながら、小ぢんまりとしたものにはならない。この別巻だけでも原稿用紙で一八〇〇枚という、大著と呼べるだけの分量がある。それは、『北米探偵小説論』とその増補決定版、さらには『日本探偵小説論』と続く、いずれも重量級を誇る著者の探偵小説論をこれまで読んできた読者には、さほどの驚きではないかもしれない。

『北米探偵小説論』はアメリカ探偵小説史であると同時に、それが必然的にアメリカ史およびアメリカ文学史にもならざるをえないという性格を持っていたが、『快楽の仏蘭西探偵小説』でもそうした性格はアメリカをフランスに置き換えて引き継がれている。ただし、前者では社会思想史の側面が強調されていたのに対して、後者ではむしろ探偵小説の観点からプロパーな探偵小説に属さない作品を逆照射するという方向性が強い。これは、著者のアメリカとフランスに対する距離のとり方の違いに由来しているのだろう。前者が「無防備に……アメリカの影響をくらい、無防備に占領されてしまった少年」の精神史であったとすれば、後者はそうした個人的な切迫感から解放されていて、ずっと作品論の方向に寄っている。

本書の記述について、著者は「通時的・横断的・点描的な処理」になったと言い、「孤立した『点』はいくつもあるが、それを結ぶ『線』を描きいれるには到らなかった」と述懐している。それはやむをえなかった。なにしろ、ここに書き込まれた「点」はあまりにも膨大なのだから。たとえば、とんでもない数の著作を残したジョルジュ・シムノンをすべて読み、その全体像を概観しながら個々の作品について論じるだけでも大変な作業だが、それを著者はやってのける。しかも、その「点描」が独特の太い点でできているのだ。

『北米探偵小説論』以来の読者にはすでに自明のことだが、著者の凄さは、気が遠くなるような数の作品群をすべて自分の目で読んで確かめているところにある。「形式への懐疑、破壊意志などといった契機を、たとえ一欠片にしろ含まない探偵小説は、凡庸になるしかない」という著者の言葉は、過去の通説をなぞるだけの探偵小説論は凡庸になるしかないという決意として読み替えることも可能だ。従って、この探偵小説論は教科書的なフランス探偵小説史とは対極にある。

その意味で、本書のいちばんの読みどころは、著者が「始原の探偵小説」と名付ける、フランス小説における探偵小説的傾向の原初的な表れとして、バルザックを指し示した章だろう。そして、『北米探偵小説論』では海外探偵小説のベストテンに選ばれていた、ロブ=グリエのアンチ・ロマン『消しゴム』を論じるにあたって、バルザックの『暗黒事件』の影をそこに読み取るくだりは、本書の白眉と言っていい。それは、始原に遡りながら、新しい展望を見据えた、この著者にしかできない創造的な探偵小説批評なのだ。

【書き手】
若島 正
1952年京都市生れ。京都大学名誉教授。『乱視読者の帰還』で本格ミステリ大賞、『乱視読者の英米短篇講義』で読売文学賞を受賞。主な訳書にナボコフ『透明な対象』、『ディフェンス』、『ナボコフ短篇全集』(共訳)、リチャード・パワーズ『ガラテイア2.2』など。

【初出メディア】
毎日新聞 2023年4月1日

【書誌情報】

快楽の仏蘭西探偵小説

著者:野崎 六助
出版社:インスクリプト
装丁:単行本(668ページ)
発売日:2022-11-27
ISBN-10:4900997994
ISBN-13:978-4900997998

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